通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム51

函館に国立大学を
誘致運動半世紀の歩み

コラム51

函館に国立大学を  誘致運動半世紀の歩み   P854−P858


平成12年に開学した「公立はこだて未来大学」(公立はこだて未来大学蔵)
 平成12(2000)年4月、1市4町(函館市、上磯町、大野町、七飯町、戸井町)の広域連合が設置主体となる「公立はこだて未来大学」が開学した。
 時代の進展に対応できる専門的知識や技術、さらには豊かな人間性、創造性を有する人材を地元で育成するため、平成6年に3選を果たした木戸浦市長のもと、南北海道がひとつになって進めてきた公立大学の開学だったが、この開学には、その前史となる半世紀にもおよぶ国立大学誘致運動があった。
 それは、昭和24(1949)年の新制大学発足以来、地元に「独立した国立大学」を開学したいという地域の要望により続けられた運動だった。公立大学開学の前史として続けられた「国立大学」誘致運動の歩みを簡単にたどってみよう。
 戦後教育改革のなかで、小・中・高校に続き昭和24年に発足する新制の国立大学は、戦前の高等教育機関を再編して誕生することになった。対象となる函館水産専門学校(昭和19年函館高等水産学校を改称)と第二師範学校がある函館では、23年に入ると、水産専門学校を独立の水産大学へ昇格させる案や地元の2校を統合して総合大学とする案が、市議会を中心に検討された。しかし、水産専門学校を北海道大学の水産学部にする動きが顕著となったため、市議会は、第二師範学校を軸にした「国立文理科大学」設置案を可決し、その設置を要請することにした(「函館市会議事速記録」)。
 これは、市議会が議決にもとづき大学の設置を国に要請した最初だった。さらに全道規模での再編であることから、10月には北海道・北海道議会および主要都市の市長らによる「北海道新制大学設置期成会」(会長田中敏文知事)も結成された。
 こうして翌24年5月、道内には、北海道大学をはじめ、小樽商科大学、帯広畜産大学、室蘭工業大学、北海道学芸大学の国立大学が誕生した。しかし函館には独立した国立大学の誕生はなく、水産専門学校は北海道大学の水産学部に、第二師範学校は北海道学芸大学函館分校(2年制)になった。なお北海道は例外となったが、国立大学は1府県1大学が原則だった。
 地元の高等教育機関を新制大学へ移行できなかった函館では、前述の北海道の期成会に出席した市議会議員を中心に「函館大学設置促進委員会」(委員長行友政一)を結成し、26年度新設が予定された文科大学、工業大学、医科大学の誘致運動を進めることとなった。昭和25年6月の市議会は、さしあたりは法学部と経済学部を中心とした4年制大学を発足し、将来的には総合大学へという同委員会の構想を満場一致で採択した(昭和25年5月25日付け「函新」)。
 誘致運動は市議会を中心に活発になったが、市は、現在は義務教育を完全にすることが非常に重大な問題で、このうえに学校の増設や大学を建てることは市の力では無理であり、それよりも国や道が持っている施設の十分な活用を期待し、大学への昇格を念願してその実現を熱望している(昭和25年6月「第二回通常函館市会議事速記録」)、と市費での大学設置には消極的だった。結局、地域の運動として統一した盛り上がりに欠けた函館では、この時も独立した新制大学の開設を実現できなかった。
 一方、北海道学芸大学函館分校を4年制の大学にしようと、関係者が中心になり、昭和25年に、「シニア設置期成会」が誕生した。この期成会の運動は、翌26年の北海道総合開発計画の一環に組み入れられたこともあって前進し、29年には、4年制大学への昇格を第1次目標とする「函館大学設置期成会」へと改組した。期成会の趣意書には、「道南住民の多年にわたる切実な要望」実現のために、「まず函館分校の施設を整備してこれを四年課程の大学に昇格させ、これを基礎として函館総合大学の実現を期す」と、その運動の方向性が記されている(北海道教育大学函館分校『創立六十年史』)。
 既存施設の利用や大学への昇格を望んでいた市もこの動きに同調、期成会の会長には市長が就任し、事務局を市役所内に置いた。市が中心となり期成会を設立しての誘致運動は、ここから始まったといえる。その後市民からの寄付などを得て施設を整えた函館分校は、昭和34年、第1次目標だった4年課程に昇格し、期成会の運動はひとつの成果をあげることができた。
 大学誘致運動が再び活発になるのは、高度成長期の昭和40年代に入ってからである。昭和45年、「函館圏総合開発基本計画」や「第三期北海道総合開発計画」が策定され、そのなかで、国立大学の積極的誘致や高等高等教育機関の整備がうたわれた。
 函館では、昭和29年以来の函館大学設置期成会を解散して「函館地区国立大学誘致促進期成会」を発足し、函館圏をあげて、海洋大学や医科大学などの国立大学誘致に動きだした。さらに昭和51年に南北海道市町村連絡協議会が国立総合大学の設置促進を決定したのを機に、地元の意向を統一し、前述の期成会を「国立函館大学誘致促進期成会」(会長矢野市長)に改組した。

第3回国立函館大学誘致を成功させるシンポジウム(昭和59年)

市内に設置された国立大学誘致運動の看板
 翌52年、期成会は、北海道教育大学函館分校(41年北海道学芸大学から改称、以下函館分校とする)を母体とし、これまでの構想を包括した「国立函館複合大学」(当面は教育・海洋・社会経済学部と総合科学部の4学部)の基本構想をまとめた。一方北海道は、55年の「北海道発展計画」に、札幌芸術大学、釧路医科大学、函館複合大学の誘致を盛り込み、全道的規模の「国立大学北海道誘致促進期成会」を発足した。以後、国立函館大学の設置は、北海道の高等教育にかかる最重要課題として取り組まれた。
 大学誘致には外からの刺激もあった。(財)数理科学振興会理事長でフィールズ賞を受賞した数学者の広中平祐が、昭和58年、高校生を対象に「第4回数理の翼セミナー」を大沼で開催した。その後何度かの開催で、大沼を含めた函館圏(北緯42度)には四季の織りなす大自然の美があり、感性を磨き思索する環境″湧源郷″として最適であるという広中の考えに賛同した民間団体を中心に、湧源大学構想の取り組みもおこなわれた。
 ところが、18歳人口の減少が予想されることから、大学審議会は、昭和59年に、大学や学部の新増設を原則抑制する報告を出したため、その後の誘致運動は大きな転機を迎えることとなった。期成会も、その方針を新大学の設置から、母体である函館分校の分離・独立へと変更した。期成会が、方針変更をして第2次構想案を出した平成3(1991)年、大学審議会は、「平成五年度以降の高等教育機関の計画的整備について」の答申で、引き続き大学の新増設を原則抑制した。
 しかし答申のなかで、地域配置の適正化や専門分野構成のバランス等から例外的に新設を認めたため、期成会は誘致運動のさらなる展開を期して、平成6年に、道南圏はもとより全道的な観点から国立函館大学の必要性に触れた第3次構想案(教育学部と国際化時代に対応した国際教養学部の2学部)をまとめ、北海道教育大学本部と文部省へ、最後の陳情をした。
 これに対し教育大本部からは陳情に沿った努力はできない、文部省からは分離・独立は難しいという回答があり、国立函館大学の誘致は頓挫した。
 誘致実現は遠退いたが、ここにきて地域の長年の願いを消すことはできず、引き続き運動を続けることとした期成会は、平成8年9月、「南北海道高等教育機関整備促進期成会」へと発展的に改組した。新たな期成会は、国立大学の誘致および既存高等教育機関の整備充実を促進し、南北海道における高等教育の充実に寄与することを目的とし、この時期動き出していた公立大学の誘致運動と歩調を合わせ、国立大学誘致のみにこだわらず、広い視野で、南北海道の高等教育機関の整備・充実をすすめていくこととなった。(辻喜久子)
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