通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム49

市街地のなかの緑の変容
グリーンベルトと街路樹

コラム49

市街地のなかの緑の変容  グリーンベルトと街路樹   P844−P848

 函館市の街路樹で昭和9(1934)年の大火以前まで好んで植樹されたのは、クロマツ、ニセアカシヤ、シダレヤナギであった。その後もクロマツは昭和30年代まで、ニセアカシヤ、シダレヤナギは昭和40年代まで使われたが、昭和30年代には、ケヤキ、シナノキ、ヤチダモが主流となっていった。ニセアカシヤは昭和30年代に植樹されなくなったが、昭和40年代には再び植えられるようになった(平成4年「函館市道路緑化構想」)。
 昭和9年の大火後に復興計画の街路整備の柱として、防火帯としてのグリーンベルトが設置された。その数15本、幅55メートル、総延長14キロになる緑地帯の登場である。当時、復興事務局で区画整理を担当した技師高本春太郎が、「当時は五十五メートル幅が大き過ぎるかどうか迷った」が、「思い切って大きくしてほんとうによかった。いまでは中心街の″緑″の役目も果たしている」と述懐しているように、現在でも市街地のなかの貴重な緑地となっている(昭和48年6月10日付け「道新」)。
 しかし、このグリーンベルトも現在まで順調に残されたわけではない。戦後の大門広小路には屋台の店が並び、景観や交通の障害となるとして問題になっていた(昭和36年8月2日付け「道新」)。
 昭和40年代には、マイカーの普及に伴なって生じた駐車場不足の苦肉の策としてグリーンベルトを駐車場にするものも現れた(昭和43年3月18日付け「北タイ」・「道新」)。中心部の交通混雑に対処するために、都心の路上駐車を全面的に禁止する代わりに、一部のグリーンベルトなどをつぶした4つの有料道路を設ける有料駐車場案が検討されたこともある(昭和43年11月25日付け「道新」)。さらに、公園などの樹木の根元を掘り起こすセミの幼虫探しが流行し、芝生に被害が出るなど、緑は数々の危機にさらされてきた(昭和43年9月12日、同44年8月2日付け「読売」)。
 しかしこの時期には、共愛会館前通りに緑の自動車の走行分離帯をつくるためにオンコ(イチイ)が植樹され、あるいは八幡通りにプラタナスやケヤキが植樹されるなど、街路の緑化整備も行われていた(昭和46年7月14日、同48年4月18日付け「道新」)。

大門広小路に設けられた買物公園(昭和48年)

大門にあったニセアカシア並木
 すでに昭和40年代初頭から函館は、「全道一の″緑の都市″に 進む街路の植樹」と報道されて、都市計画道路総延長の24.9パーセント、37.7キロメートルにわたって樹木が並び、種類もニセアカシヤの2700本をトップに、プラタナス、ヤチダモなど39種8300本に達していた(昭和41年7月31日付け「道新」)。
 しかし、ニセアカシヤは台風などの強風に見舞われると、伸びた枝が折れて道路に散乱するため、補植にも極力使われず、40年代後半からプラタナスに比重が移っていった(昭和51年7月11日付け「道新」)。そのプラタナスも公害には強いが、葉が茂りすぎて視界の妨げになり、剪定が容易でないことなどから、昭和50年代に入ると、ナナカマドが植栽されるようになる(同51年10月19日付け「道新」)。ナナカマドは、函館では不適とされ、街路樹に採用されていなかったが、昭和47年にテストケースで的場公園前通り300メートルに75本が植樹されたのをはじめとして、その後盛んに植樹されるようになった(昭和47年4月7日付け「道新」)。
 昭和49(1974)年に函館市は、「函館市緑化条例」を制定し、翌年には緑化推進計画を策定した。条例化の契機は、矢野市長が欧米視察のおり、「各都市の緑の多さに刺激されたためだが、逆に函館市の緑の少なさを自覚させられ」緑化の重要性を認識したためであったという(昭和49年2月5日付け「朝日」)。この年の市内の公園面積は市民1人あたり4.2平方メートルで、全国平均の2.8平方メートルを上回ってはいたが、函館山や見晴公園などを含めたものであった。市の中心部には緑はほとんどみられなかったし、昭和30年代なかばにはじまった郊外への人口移動によって、旧亀田市域では無秩序な宅地開発が進められて、緑が急速に消失していた(『函館市史』亀田市編・第6編第2章第2節、コラム26参照)。

緑の変遷(『函館市緑の基本計画』)
 公園面積の中心を占める函館山の周遊道路建設が自然保護団体の反対に遭い(コラム50参照)、湯川町のクロマツ防砂林の伐採計画について、「緑化を進めるなら自然破壊につながるような計画は中止すべき」との声が出されていたのも同じ時期である(昭和49年2月5日付け「朝日」)。函館山の活用は自然を公園として最大限に利用する、という日本公園緑地協会の提言もあって、昭和50年に函館市は周遊道路の建設を白紙撤回し、「函館山緑地整備計画」(昭和50年から昭和59年)を打ち出したので、緑化は新たな展開をみることになった。
 その後、函館市街の街路樹は年々多くなっているが、緑が多いと実感できないのは、街の中にまとまった緑(林)がみられないためである。函館の街には緑が多いと思っている市民がいるとしたら、それは函館山や五稜郭公園など、市街地と分断して存在する緑への残像が濃いためであろう(平成10年9月4日付け「日刊政経情報」)。
 戦後まもなく五稜郭の外堀一帯の箱館奉行所ゆかりのアカマツがつぎつぎに切り倒され(昭和20年9月28日付け「道新」、平野鶴男「回想・五稜郭跡周辺」『地域史研究はこだて』第33号参照)、さらに追いうちをかけるかのように、伐採を免れていた名残のアカマツも、昭和46年に都市計画路線に引っかかるという理由で伐採された(昭和46年7月19日付け「道新」)。

ナナカカマドにとまる小鳥
 平成元(1889)年度の函館市の公園面積は484.7ヘクタールに達し、市民1人あたり15.38平方メートルで、全国の都市のなかでも上位にあった。このうち函館山の326ヘクタールを除くと158ヘクタールとなり市民1人あたり5平方メートル以下となる(平成元年10月25日付け「日刊政経情報」)。緑化条例制定時と比べると、1人あたりの公園面積は15年で約3.6倍へと、着実に増加しているともいえるが、函館山などを除いた市街地では、依然として少ない。
 市街地のなかの緑地は、防災など都市計画上の機能を持つが、それ以上に景観や憩いの場としての機能も重要である。ここ数年、赤川通りや柏が丘通り、五稜郭公園線などで、冬鳥、とくにレンジャク類が、赤い実を付けたナナカマドに群がる光景を目にするようになった。ツグミ、シメ、アトリ、ムクドリなども多くみられ、実の色の鮮やかさとともに、群がる鳥たちが、単調になりがちな冬の街並みに一時の変化を与えてくれる。
 現在、函館の街中に緑が少ないことは、街の地形・地質・気象条件に左右されているのも一因ではあるが、数少ない緑を伐採してきたことも大きい。今ある緑をいかに残すのか。点だけでなく、その自然環境に合った、自然環境を考慮した面としての景観保存や復元が図られる必要があろう。(佐藤理夫)
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