通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第2章 復興から成長へ

コラム48

大森浜の砂山
押し寄せる都市化の波と環境問題

コラム48

大森浜の砂山  押し寄せる都市化の波と環境問題   P839−P843

 函館の大森浜の砂山を「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くにおもひ出づる日」と詠ったのは明治時代の歌人石川啄木である。
 啄木がいた頃、この一帯から湯の川までは何もさえぎるものがなく砂山が続いていた。夏にはハマナスの花が咲き乱れ、月の輝く夜などまるでアラビアの砂漠をさまようような感じを抱かせたという(昭和32年8月22日付け「道新」)。浪漫派の啄木ならずとも、歌を詠まずにはいられない美しい景観が広がっていた。

昭和23年の砂山の広がり(財団法人日本地図センター「昭和20年代空中写真」より) 右は拡大図
 その景観のすばらしさも、昭和30年代に入ると都市化の波で大きく姿を変えつつあった。昭和38年7月10日付けの「北海道新聞」は、この消えゆく砂山を詳しく取材している。この記事をもとに砂山の消長をおってみよう。
 函館山はその昔離れ小島であった。それがいつの頃からか潮流と波の作用で、島と陸地の間に砂州ができ現在のような地形になった。砂州の東側に太平洋から運ばれてきた砂が長い間堆積してできたのが大森浜である。海岸では風の力も手伝って高さ30メートルもの砂の山が築かれ、砂山一帯の面積は東西に1キロメートル、南北に300メートルの35ヘクタールにも及んだ。
 この辺一帯は現在は日乃出町だが、昭和6(1931)年から13年までは砂山町と呼ばれており、隣接する高盛町は砂山の最も高い所を高大盛と呼んだところに由来しているという。
 この砂山にまつわる歴史のひとこまに、通称「サムライ部落」や「砂山部落」というものがあった。新川河口から日乃出町にかけての砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた人びとの一群のことである。
 昭和25年5月9日付けの「函館新聞」では、当時で40年にもわたる長い歴史があり、サムライ部落の正統派と称する日乃出町の「五十軒長屋」が紹介されている。それによれば、大正2(1913)年に5、6軒の掘立小屋が建っているだけだったその場所に、いつの間にかあっちこっちに小屋が建ち並ぶようになったとある。函館が繁栄するにしたがい、市街地は膨張していき、都市化に伴うさまざまな弊害(ゴミや糞尿の処理)は、当時市街地のはずれにあたるこの地域に発露したのである。そのような場所に貧しい人びとが住み着いてきた歴史があったのだ(『函館市史』都市・住文化編参照)。啄木が賛美したこの砂山が消滅してしまったきっかけもその問題と無縁ではなかった。

サムライ部落

昭和34年頃の砂山(金丸大作撮影)
 ゴミは、昔は家庭で適当に処分されていたが、明治期なかばには、防波堤がわりに大森浜に投棄されるようになり、この海岸は次第にゴミ捨て場と化していった。そして昭和2年、砂山の東部に汚物焼却炉が設けられたのである。
 また市内の家庭から出る糞尿の大半は、明治期以来、近郊農家の肥取り馬車が回収をしていたが、第2次世界大戦が始まると、すべてにおいて戦争遂行が優先し、糞尿回収にまわる力がなくなった。そして昭和18年、砂山に素堀の糞尿貯留池が設けられるに至ったのである(『函館市史資料集』第7集)。
 以上のような環境悪化に加え、さらにもうひとつ、戦争に端を発した問題があった。この砂山から砂鉄が採れるというので、戦争の末期には大量の砂が運びさられたのである(昭和32年8月22日付け「道新」)。

日乃出町の護岸工事(昭和32年頃)

石川啄木と小公園(昭和33年)
 戦後は国土の復興や開発という号令のもと、砂山の砂鉄堀りにはさらに拍車がかかった。昭和28年に、砂山を横断する道路を造成するという条件をつけ、市が民間の会社に、砂鉄の採取を認めたのである。この砂山の砂鉄含有率は20パーセントという貧鉱だが、最新式の機械で1日平均300トンの砂が消化された。このペースでいけば、5年後の昭和33年には砂山の約半分が平地になるということだった。なお砂鉄採取後の砂は、すでに1500トン余りが宇賀浦湾に流されていた(昭和28年12月13日付け「道新」)。
 砂鉄採取以外にも、砂山の砂は港湾の埋め立て、ダムやビルの建設、道路舗装などいろいろなことに活用された。とりわけ中野ダムの建設には大量の砂が運び出された(コラム22参照)。
 砂山を貫く国道278号(通称海岸道路)の工事が完成したのは31年12月。工事にともない「サムライ部落」も立ち退きを迫られ、その姿を消していた。
 函館市は道路地先に小公園を造成して、33年11月には、この地にゆかりの深い石川啄木の銅像が建立された。啄木は砂地に座した姿で、右手をあごにあて、左手には処女詩集を持っている。制作者は本郷新で、台座には、「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」の詩が刻まれている。
 この頃まだ一部残っていた砂山の所有者は、およそ1.55ヘクタールを所有していた上磯町であった。ここにはかつて青函連絡船通信用の無線送信所があったのだが、昭和9年の大火で焼失したため、国鉄は新たな敷地を上磯町内に求め、土地が交換されたのである(昭和38年7月10日付け「道新」)。
 昭和40(1965)年、上磯町の所有地だった最後の砂山が売り払われて砂鉄業者のものとなり、砂鉄は取り尽くされ、数年後にはついにその姿が消えた(函館市史編さん室『函館むかし百話』)。(花岡さえ子)
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