通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
2 国鉄青函連絡船と民間フェリー

国鉄青函連絡船の復興

占領軍・朝鮮戦争による運行規制

新造船と貨物取扱港湾施設の強化

「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化

合理化と乗客・貨物の減少

フェリーブーム

野辺地航路と七重浜ターミナル基地

連絡船の終焉と青函トンネル

野辺地航路と七重浜ターミナル基地   P485−P487

 海峡フェリーの需要の伸びを見込んで、東日本フェリーと函館商船株式会社(以下、函館商船)が新たな海峡航路、函館−野辺地航路の開設を申請した。函館商船は函館ドックが海運事業進出の一環として創立した子会社で、日魯漁業とも提携していた。
 44年4月に先に申請していた東日本フェリーに認可がおり、7月に野辺地ターミナルを建設して開業した。一方の函館商船にも認可がおり、北浜埠頭(現北埠頭)と野辺地にそれぞれターミナルを建設、1500総トンのフェリー2隻を竣工、46年4月から同航路の運航を開始した。2社の競争により、サービスの改善につながったが、石油ショック以後は需要が抑制されたため、函館商船は経営難に陥り、51年5月、野辺地航路を東日本フェリーに譲渡した。

七重浜に到着したフェリー
 東日本フェリーは、45年6月30日、上磯町と接する港町に七重浜ターミナル施設と七重浜ドルフィン岸壁を竣工させ、ここを函館−青森航路とともに函館−野辺地航路の発着ターミナルとした。さらに、本社を移転し、函館−大間航路の発着も七重浜にして、機能を集約しようとした。末広町が手狭であり、また折からの函館圏総合開発基地計画(45年6月)で、函館港の港勢が西部地区から七重浜、上磯地区に移動するとみこしたからである。移転が実現したのは51年であった(前掲『社史』)。民間フェリーによる津軽海峡航路の輸送状況は図2−33のとおりである。
 なお東日本フェリーは津軽海峡の航路のほかに、苫小牧や室蘭、小樽、釧路を基地にした長距離フェリーの就航にも成功し ていった。
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