通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 フェリーブーム |
フェリーブーム P484−P485 無限とも考えられた中東産石油(その有限なることが知らされたのは、昭和48年の石油ショック)によって支えられた、昭和30年代から40年代の経済の高度成長期には、自動車の普及は、産業用トラックから個人用乗用車にまで至った。加えて月賦返済制の導入は、爆発的な乗用車の普及に拍車をかけて、モータリゼーションを生んだ。このモータリゼーションが、トラック、乗用車(運転手つき)の津軽海峡運送企業化を導いたのである。すなわち、海峡フェリーの登場である。従来、津軽海峡を渡る自動車は国鉄連絡船で貨物輸送するか、内航海運業者の小さな汽船や機帆船に積み込まれるしかなく、13時間ほどを要していた(前掲『青函連絡船史』)。これでは、増加の一途をたどる自動車運送に対応はできなかった。もともと奥尻島と江差間の機帆船運送から出発した道南海運株式会社は、函館青森県大間間自動車航送船就航認可を受け、39年6月15日に函館と大間の間に、日本で初めての外洋フェリー「大函丸」を就航させた(第7編コラム45参照)。この新型車両運搬船は、函館−大間間を1時間40分で渡り、バスなら5台を運ぶことができた。
この頃の津軽海峡には、ほかに青森函館間の青函航路と青森室蘭間の青蘭航路(39年6月、貨物船型自動車運搬船就航)を持つ青森フェリー株式会社、それに青森県の三厩と松前郡福島間の定期航路(40年4月、フェリー就航)を持つ株式会社青森商船が競合していた。さらに国鉄が青函連絡船による自動車航送を打ち出したため、民間会社は、計画中止の嘆願書を出すなど結束して対抗しようとした。その結果、42年までの間に上記の民間航路はすべて東日本フェリーのもとに吸収された。 なお、43年には末広町に東日本フェリーの本社ビルと旅客ターミナルビルを完成させ、フェリーの発着も末広町岸壁が使用された(東日本フェリー株式会社編『社史』)。新聞は、沈滞していた西部地区に活力を与えるものとなったことを報じている(6月20付け「毎日」)。 国鉄も42年に自動車航送を実現させた。使用船は津軽丸型客貨船で、その遊歩甲板後部の約半分のスペースに、乗用車に限って搭載された。懸念されていた民間企業との利用者の奪い合いはなく、それどころか需要は高かった。そこで、1日2往復1船6台積みでスタートしたものを、翌年6月から6往復に増便した。その後も需要の増加にあわせ、輸送能力を高め、往復回数を増やすなどして対応した(表2−34)。しかし、折からの不況などにより、49年に減少に転じ、その後も伸び悩みが続いた(全掲『航跡−青函連絡船七〇年のあゆみ』)。
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