通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
2 国鉄青函連絡船と民間フェリー

国鉄青函連絡船の復興

占領軍・朝鮮戦争による運行規制

新造船と貨物取扱港湾施設の強化

「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化

合理化と乗客・貨物の減少

フェリーブーム

野辺地航路と七重浜ターミナル基地

連絡船の終焉と青函トンネル

国鉄青函連絡船の復興   P476

 昭和20年7月14、15日の米空軍機の空襲で沈没した青函連絡船は、客貨船4隻と貨物船6隻で、ほかに損傷を受けた2隻があった。この空襲以前に、2隻が海難事故で沈没していた。壊滅状態の国鉄青函連絡船運航は、その後どうなったのだろうか。急遽、応援の樺太丸(船舶運営会所属)が20年7月25日から22年9月22日まで就航したほか、損傷を受けていた貨物船第7青函丸と第8青函丸の2隻は、2週間ほどの修理を終えて復活した。また軍艦千歳が、第8青函丸就航まで、軍艦浮島も、稚泊連絡船からの応援船、亜庭丸が就航する7月23日まで(亜庭丸も、8月9日の空襲で沈没)つなぎの役を務めた。正規の旅客船が少ないのだから、旅客も動ける貨物船に乗って海峡を渡ったのである。
 戦後、壊滅状態の青函連絡船に需要が殺到した。第一に、敗戦により解散した陸海軍軍人や、徴用者の帰還が差し迫った問題であった。差しあたって、関釜連絡船より、8月に景福丸(客貨船)と壱岐丸(2代目、客貨船)が、11月には宗谷丸(客貨船)が稚泊連絡船より、転属となった。旅客の方はこの3隻で、何とか形がついた。貨物の方は、戦時中、大活躍した機帆船が代役を務める。動員された機帆船は数十隻にのぼる(青函船舶鉄道管理局『青函連絡船史』)。20年度の機帆船の函館からの移出67万トンのうち、その大部分、64万5000トンが石炭だったと反保光三は記録している(元北海海運局職員、記録は未公刊)。もっとも機帆船の移出は21年から激減する。しかし23年度まで、30万トン前後を維持している。移出に比べると函館への移入は少ない。戦後最高の23年度で、6万5000トンである。その主力は、海産物、雑貨の移入であった。また幸いにも20年10月、第11青函丸(2850トン、貨車44両積載)が就航した。どこもここも、機能を停止したなかにあって、国鉄の船と後述するように陸上の駅、列車はきちんと動いていたのである。
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