通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
2 国鉄青函連絡船と民間フェリー

国鉄青函連絡船の復興

占領軍・朝鮮戦争による運行規制

新造船と貨物取扱港湾施設の強化

「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化

合理化と乗客・貨物の減少

フェリーブーム

野辺地航路と七重浜ターミナル基地

連絡船の終焉と青函トンネル

占領軍・朝鮮戦争による運航規制   P477−P478

 国鉄は国有産業であるだけに、敗戦の影響はただちに現れる。占領軍による運行規制であり、連絡船や鉄道が占領軍兵士および貨物を最優先に運行したことである。戦災で数も減り老朽した連絡船や国鉄の機関車、車両は、占領軍兵士、軍属および軍関係貨物の運送を最優先とし、国民向けの分は減らされた。それだけで交通難の原因をもたらした。
 運行規制では、連絡船関係にしぼってみても、20年8月24日、米軍進駐のため、まず100トン以上の船舶の航行が禁止された。これは、日本全体に適用されるもので、連絡船にも無論適用される。それから、8月26日、第7青函丸、樺太丸、暁南丸(8月21日就航、1234トン)の3隻が「武装解除の上、舷側に白十字の標識を付して航行許可された」(前掲『青函連絡船史』)。9月8日から10日まで、米艦隊の大湊進駐のため一般航行を禁止されたが、連絡船青函間運航は9月10日、米北太平洋艦隊から正式に許可された。また、米軍は9月24日、青森および本州北部に進駐のためとして、9月24日22時より30日まで連絡船運行を禁止し、30日には、旅客貨物の取扱停止を10月5日まで延長したうえで、10月3日、函館進駐のため、同日22時から5日まで一切の船舶の函館港への出入を禁止した(同前)。
 米軍の函館進駐は10月4日午前10時から開始され、海岸町埠頭(工事中)に本隊が上陸し、貨物は西埠頭に陸揚げされた。
 次に函館進駐後の直接規制であるが、その目的は、米軍最優先輸送体制の監視、監督である。それに対応するのが20年9月27日、函館管理部に設置された渉外室である。10月1日、これが函館駅RTO(Railway Transportation Office)となり、占領軍下士官1名が、駅長室で業務を開始した。このRTOには、翌21年1月9日、専任助役が指定された。RTOは青函連絡船を含む鉄道部門の絶対支配権を握っていたのである(『先駆−函館駅八〇年の歩み−』)。

新聞の機雷報道(昭和26年5月1日付け「函新」)
 貨車航送船の第11青函丸と、21年5月就航の新造貨車航送船の第12青函丸(3161トン、貨車44両)の2隻は、22年7月11日、占領軍専用連絡便とされた(同前)。それ以前すでに20年12月10日から、青函航路の1、2等船室は、占領軍の専用とされていた(『函館駅五〇年の歩み』)。鉄道部門も同じで、20年10月6日、2等客車が占領軍に「供出」されたのを皮切りに、函館−札幌間に専用の軍用臨時旅客列車便が仕立てられ、この「進駐軍専用便」が廃止になったのは、27年4月1日である。貨車航送船が客扱いをし、機帆船が動員され、船も列車も、こぼれ落ちんばかりに客を満載して走っている国鉄の輸送に、占領軍の規制は大きな支障となっていた。
 さらに、25年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、青函連絡船の運航に大きな影響を及ぼした。この戦争は日本の経済の救世主の役割を演じたといわれるが、連絡船の運航には、多くの支障をもたらした。浮遊機雷が津軽海峡に出現したからである。浮遊機雷は、26年5月2日に出現したと『青函連絡船 栄光の記録』に記載されている。問題はこの対策に有効な手段がないということだった。国鉄は、25年、9000万円を投じて、青函連絡船14隻全船にレーダーを設置したが、機雷対策には全く役立たず、連絡船の夜間運航を停止するしかなかった。乗務員も労働組合を通して乗船を拒否する事態が生じていたのである。
 この浮遊機雷が激減するのは、ようやく28年に入ってからである。青函連絡船の運航停止は、乗客の安全を守るため、主として客貨船に対しておこなわれた。乗客が、逃げるのに便利な上甲板の1等船室に殺到したという笑えぬエピソードが、26年10月14日付けの北海道新聞に載っている。幸いにも接触事故は1隻も起こらなかった。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ