通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
2 芽吹く文化活動

「函館新聞」の発刊

「文化賞」と田辺三重松

博物館建設への動き

博物館建設への動き   P301-P304

 戦前、市立函館図書館の館長岡田健蔵は、函館公園内に明治12(1879)年創設された北海道開拓使の「仮博物場」を基礎として、「仮」ではない本格的な博物館建設を強く願っていた。その頃、図書館がある函館公園のなかには、水産館という名称に変えられた、かつての仮博物場と明治17年創設のアイヌ、その他の北方民族の生活用具などを陳列している先住民族館が存在していた。しかし、この2つの建物は、それぞれ100平方メートル程度の小規模な建物であり、管轄する側の変遷が原因となって、内部資料の散逸は免れなかった。すでに、所蔵品のなかでも重要な位置を占めていたブラキストン(函館居留の英国商人)の収集・寄贈による鳥類の標本も札幌へ流出してしまっていたのである。
 一方、市立函館図書館の2階には、トラピスト修道院長岡田普理衛が収集した鉱物標本を中心に、カムチャツカ産のマンモスの牙や函館近郊の植物標本を展示する地学室があった。これらは昭和18年、市立函館図書館附設の博物館施設として管理も図書館へ移されていた。そこで、岡田は、この分散する施設の収蔵品を集めた総合的観覧施設の完備と共に研究室を置き、指導・研究の設備を整え、図書との関連も具備して科学教育の一翼を担いたいという願望を日本博物館協会への提出報告として述べていたのである(『市立函館図書館多與利』第470号)。
 戦後、岡田健蔵亡き後も昭和21年『函館市事務報告書』によれば、博物館は依然として市立函館図書館附属の施設と位置づけられ、事務管理も図書館がおこなっていた。ちなみに同書によれば、水産館・先住民族館は11月から4月まで冬期休館し、入館者は団体の830人を含めて、1日平均、水産館が59人、先住民族館が30人というような状況にあった。また、同年10月、図書館内において函館郷土博物研究会の総会が開かれ、12月早々、第1回談話会を開催し、谷田専治による「海綿について」の講演があり、それ以来、継続して例会を開き博物館的な活動をしていた。
 ついで、函館文化懇話会でも函館の歴史と伝統を生かすために、郷土博物館建設を要望していて、昭和23年5月に市役所において博物館設置促進準備会が開かれた。内容は、これまでの各種標本展示に加えて、大衆に親しめる美術工芸品を主な資料とするほか、函館の特性を活用する海洋博物館の設置、子供向けの科学教育館をつくることなどが協議され、市では早急に、市議会に提出することになった(昭和23年5月5日付け「道新」)。
 7月の市議会には、市立函館博物館設置條例として、(1)博物館を市立函館図書館内(従来どおり、先住民族館・水産館を含む)に置くこと、(2)市民が文化的国民として必要な知識の普及を図り、市民の教養を高めることを目的とすること、自然および人文科学ならびに芸術に関する標本・記念物およびその他の資料を陳列・保存し、必要に応じて特殊な研究設備をすること、(4)備え付ける資料は市費による購入および有志の寄贈ならびに委託品とすることが明文化され、7月30日に可決し、8月1日から施行されることになったのである(昭和23年「市会議決書」)。
 この年、函館出身の北海道大学教授児玉作左衛門の希望により、長年にわたって収集した北方文化研究資料が児玉コレクションとして博物館へ寄贈されることになった。これを契機として翌年早々、函館市では内容をさらに充実させた特色ある地方博物館を目標に新たな建築計画が発表されたのである。その計画は、函館公園内に924平方メートルの敷地を確保し、鉄筋コンクリート2階建てを想定し、児玉コレクションを主体として、これまでの展示物を一堂に集め、さらに美術室・図書室・研究室を附設する予定であった。この建物が完成すれば、貴重な資料約1万点を展示する「東京以北随一の地方博物館」となるはずで、博物館建設期成委員会も結成された(昭和24年1月5日付け「道新」)。
 建築計画は3か年の予算で考えられ、初年度に当たる24年度分の予算200万円のうち、市が100万円を支出し、博物館建設期成委員会が100万円を募金することになっていた。ところが、寄付金・街頭募金ともに思うようには集まらず、11月になっても6万円程度にしかならず目標額にはほど遠く、建築資材購入の見通しさえつかない状態であった。これでは、とても予定どおり26年度に完成することは困難となり、早くも挫折した形になったのである。
 それでも、財界人の主導による市民を主体とする博物館建設委員会(「期成」の語句がはずされた時期は不明)は、たゆまず努力を重ね、「映画の夕べ」を開くなど積極的な募金活動を続けていた。また、募金を強力に推進するため、「函館博物館建設趣意書」を印刷し、函館を「北海道文化の淵源地として異色ある都市」とすると共に、市民の教育を啓発する博物館建設計画を遂行するために、有志から絶大なる援助・協力を得ようとして「猛運動を展開」することになった(「市政はこだて 第十六号」 昭和26年2月1日付け)。

未完成のまま長く放置されていた博物館(「道新旧蔵写真」)
 ようやく、26年3月になって工事の入札がおこなわれ、第1期工事として1階部分の主体工事(コンクリート骨格)だけが、4月早々着工されることになった。しかも、建物は当初の計画より大型化され、延床面積3016平方メートルにおよぶ設計になっていた。全館が完成すると、1階は研究室・食堂・ホール(休憩室)となり、2階にポーチ付きの玄関・会議室・館長室・事務室、3階は2つの展示室を備えた博物館が姿を現わすはずであった。しかし、それから2年後の28年5月19日付けの「北海道新聞」の記事には、「立ち腐れの博物館」という不名誉な見出しで報道されている。相変わらずの市の財政難により建設資金が続かないため、1期工事終了後は放置されている状態のままであったのである。翌年の7月、北洋博覧会が函館で開催された折りには、期間中は急ごしらえの「電波と電信電話館」へと変身したが本格的に建物が完成し、昭和41年4月、博物館として開館するまでには、さらに12年もの長い歳月を要したのである。
 なお、支援団体であった博物館設置促進委員会・博物館建設期成委員会・博物館建設委員会の構成メンバーの資料はなく、その活動の詳細についても、現在ほとんど伝えられていない。
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