通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
2 芽吹く文化活動

「函館新聞」の発刊

「文化賞」と田辺三重松

博物館建設への動き

「文化賞」と田辺三重松   P297−P301


田辺三重松
 昭和21年11月、新憲法公布の記念行事として、北海道新聞社では文化事業の2大計画を発表した。「北海道新聞文化賞」と「北海道新風土記懸賞募集」である。新生日本の歴史的な門出に当たって、郷土の建設に寄与した道内の学術・美術・産業改良・教育・社会事業などから、とくに優秀な文化的業績を選抜して表彰しようという企画である。
 この「北海道新聞文化賞」には科学技術賞・産業経済賞・社会文化賞があり、各分野で優れた業績をあげた人に与えられるものである。人選は道内の各官庁、研究機関、文化団体、あるいは個人の推薦を受けて、新聞社内の文化賞選定委員会において協議・決定することになっていた(昭和21年11月3日付け「道新」)。
 翌22年の第1回「北海道新聞文化賞」の社会文化部門では、釧路出身の音楽家である伊福部昭が受賞した。伊福部は昭和10年、北海道大学農学部の林学実科を卒業して森林事務所の作業助手をしていたが、大学在学中から音楽活動に関心が強く、作曲家としての精進の日々を重ねていた。戦後は札幌の林業試験所に在職しながら北海道の風土を感じさせる独創的な作曲で認められ、東京へ転居して上野の音楽学校講師の職に就いていた。
 さて、毎年11月3日に発表されることが恒例となった「北海道新聞文化賞」で社会文化賞の第4回受賞者に選ばれたのが、函館の田辺三重松である。この賞が北海道の文化界では、最高峰として位置づけられつつあった昭和25年のことで、受賞理由は「本道美術界に対する貢献ならびに優秀作品の発表」となっている(昭和25年11月3日付け「「道新」)。
 社会文化賞に限っていえば、第2回受賞者は「モヨロ貝塚の民族について」で北海道大学教授の児玉作左衛門、第3回受賞者は「北海道史の研究」で北海道大学教授の高倉新一郎と「アイヌ語の研究と辞書編纂」で北海道大学講師の知里真志保であったから、田辺の受賞は美術分野としては最初であり、しかも在野からの受賞者ということも異質な感じがするものでもあった。この時、田辺は53歳になっていたが、それまでに特定の画家に師事することもなく、上京して特別な修業をおこなったわけでもなかった。昭和25年11月3日付けの「北海道新聞」紙上の「受賞に輝く人々」では、田辺について「独学で進む廿余年 異彩の風景画 今や日本一流に」と題し、「ただ、黙々と郷土函館の一小学校教員として独学を続け、もっぱら展覧会発表を唯一のきずなとして今日に至った特異な人である」と紹介されている。田辺自身の談話のなかでも、「人は私のことを努力家だとか、勉強家だとかいいますが、好きな絵をただ画き続けてきただけです。……ただ、こちらにいると、立派なモデルを使う機会がないためと北海道の自然が秀れているため、いきおい風景ばかり画くことになってしまいました」、と心境を述べている。
 函館の呉服店に生まれ育った田辺は、商人としての道を歩むために函館商業学校へ進学するが、そこでは、子供の頃から持っていた絵を描くことへの憧れを一層触発されるチャンスにも恵まれることになった。田辺の入学当時、図画の教科を担当していたのは、四条派の正統的な日本画家として地元でも著名な北條玉洞であった。田辺自身の回想によれば、図画の授業について、はじめのうちはぞんざいに描いていたため成績はいつも「丙」であった。ところが、缶詰のレッテルの図案を念入りに仕上げ、「風味佳良」という文字まで書いて提出した時には、先生に非常にほめられ「甲」の成績をもらって以来信用を回復し、上級生になってからは、美術関係の主だったことをやらされるようになったということである(函商百年史編集委員会編『函商百年史』)。
 また、田辺の在学中に「オーロラ画会」と名付けられたクラブ活動の美術部が創設され、田辺も積極的に参加した。生徒の作品は、たいてい水彩の風景画やデッサンで校内において展覧会をやっていた程度であったが、田辺が卒業する頃には、市街の会場を借りて開催するようにもなっていた。北海道新聞社の社会文化賞を受けた前年、既に第1回北海道文化賞を受賞していたが、昭和26年、田辺は函館市文化賞も受賞することになり、3年連続の栄誉を受けたことになる。その時の投稿記事「わたしの回顧」でも、絵に情熱をそそぎ出したのは極光会(オーロラ画会)のメンバーとお互いに刺激しあいながら水彩画を描いていた頃からだとふり返っている(昭和26年11月18日付け「函新」)。
 大正5(1916)年に商業学校を卒業して家業を継いでいるが、やがて家産が傾いたため、新たに自ら洋品店を営みながら油絵を描きはじめ、昭和3年には二科展へ出品してみた2点の作品が初入選した。この時、田辺は31歳で、同時に道展にも入選し長官賞を獲得している。田辺の「略年表」によれば、大正9年、母校でもあった幸尋常小学校で図画の代用教員として1年間勤め、校内ではじめての個展を開き水彩画を発表している。まもなく、家業を廃して再び教員となって画業に打ち込むことを決心し、その後は、昭和21年まで市内の各学校で図画の教師としての生活を送ることになるのである(中塚宏行著『田辺三重松−絶景へのオマージュ』)。
 また、田辺は「芸術というものは、東京のように中央だけにあるものではなく、むしろ地方にその土地独自の文化があり、郷土から生まれてくる作品こそが本物である」と考えていて(北海道道立函館美術館『絵筆ひとすじに生きた画家 田辺三重松』)、函館の街とその周辺の風景には特別な愛着を持っていた。それは、多くの作品にも反映され「風景画家」としての評価を高めることにもつながっている。あるいは一時期、小学生向けの月刊雑誌『函館の小学生』や郷土文芸誌『海峡』の表紙を描いており、地域の教育・文化の向上にも協力を惜しまなかった。
 さかのぼって、大正末期に東京の画商石原龍一が函館で「アンボール展」という大規模な展覧会を催したことがあった。当時、巨匠として名を馳せていた安井曾太郎、梅原龍三郎はじめ中堅の画家たちの作品も多数出品されていた。その時に何かと仕事を手伝った田辺の絵を石原が見て、東京の展覧会への出品をすすめられたことが二科展出品のきっかけとなって前述の如く、いきなり初入選となったのである。
 以来、二科展への出品作は入選を重ねて、ついに、昭和11年に「特待」(次の年からは無審査で出品できる特別待遇)を獲得し会友として推薦され、全国的にも画家として認められ、知名度があがるようになった。さらに、安井曾太郎、児島善三郎の知遇を得たことにより、「この二人からは光の反発へ眼を向けることや、空間の中でボリウムがもつれあうのをつかみ、物質感、色彩感を出すことなどを教えてもらった」という(田辺三重松『画風に響く風土』豆本海峡8)。

朝日新聞第1回秀作展に出品された「夏の函館港」(北海道立函館美術館受託)
 時局柄、二科会は昭和19年の秋に解散するが、戦後まもなく旧二科会のメンバーで構成された行動美術協会がスタートし、田辺も創立メンバーに加わった。この会は、東京中心のものではなく地方の文化向上を目的とし、東京のほか関西と北海道にも事務所を置くというもので、田辺の理想とするところとも合致していた。昭和21年に、田辺は長年の教員生活を辞めて画家として活動の範囲を広げることができるようになり、表現にも独自な世界が展開されていった。
 田辺自身の考え方としても、絵は造形的なものを強調し、自然を見る態度が決定的なことだと信じていた。そうして、もっと自然の形がゆがめられ、色も実際の自然とは違っていき、芸術作品としての普遍性を保ちながら自分の考える世界を画布の上にいつまでも表現し続けていきたいという希望を持っていた(昭和26年11月18日付け「函新」)。
 その後、創作活動はますます活発になり、個展は道内各地で開かれて、昭和27年には、はじめて大坂でも開催された。相変わらず、毎年の各種展覧会にも出品を続け、また地元では後輩への指導や助言にも熱心に当たっており、函館の美術界におけるかけがえのない存在となっていたのである。
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