通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
2 芽吹く文化活動

「函館新聞」の発刊

「文化賞」と田辺三重松

博物館建設への動き

 

 

*1 創刊号(第1号)は昭和21年11月29日付け

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*2 誤り、正しくは昭和24年11月25日「函新」

「函館新聞」の発刊    P293−P297


比佐友香編集局長(『函館新聞 小史と回想』より)
 戦後、民主主義の時代を迎え、いわゆる「文化国家の建設」を目指す手段として、それぞれの地方においては文化的な活動に一層関心が寄せられるようになっていった。まず、言論界について見てみると、函館でも早速、地元紙発刊の動きが起こった。明治時代以来、新聞発刊の先進地であった函館には、多くの新聞が名称の改廃を経ながらも存在していたが、昭和16年、「函館日日新聞」、「函館新聞」、「函館タイムス」の3紙が合同して新函館を設立し、12月1日「新函館」を創刊した。ところが、まもなく新聞の整理統合に当たって地方紙を1県1紙とする政府の方針により、北海道では翌17年11月1日創刊の「北海道新聞」1紙にすべて組み込まれてしまったのである。
 昭和20年9月、GHQは「言論および新聞の自由に関する覚書」を発表、ついで、日本政府に指示して言論報道の統制を解除させた。さらに、「新聞を政府から分離する指令」、「新聞通信に対する一切の制限を撤廃する指令」に準拠して、あらゆる新聞は自由な立場で報道できるようになった。しかし、占領軍進駐後、GHQは言論報道に事前検閲を実施し、占領軍に不利な報道は削除されることもあり、名実共に「報道の自由」を獲得したのは26年の対日講和条約以後のことであった。
 函館においては、昭和21年11月24日(*1)創刊の「函館新聞」が戦後紙のなかでも「Aクラス」と評価されているが(『北海道新聞四十年史』)、当初の意気込みに反して結局は資金繰りに苦しみ、地元紙復刊を喜ぶ市民の期待に応える事ができたのはわずか10年ほどでしかなかった。この「函館新聞」は、市内のみならず、道南・青森方面にまで販路を伸ばし「函新」と呼ばれて広く親しまれ、各界の指導者層の間にも支持者は多かったのであるが、「函新」を知っている人は徐々に少なくなり、「函新」の存在を語る記録や資料もほとんど残ってはいないという状態である(函新会編『函館新聞 小史と回想』)。同書によると、戦後の「函館新聞」は「朝日新聞」の協力紙として誕生したものであった。中央紙の「朝日新聞」でも、戦後になると多数の社員が外地赴任から帰社、あるいは復員してきたものの、当時は2ページの朝刊を印刷する程度の新聞用紙しか確保できず、人材を活用する場がなく苦慮していた。このような事情は「朝日新聞」ばかりではなく、「毎日新聞」、「読売新聞」も同様であったので、それぞれが地方紙の創刊に協力することになったのである。
 ともあれ、「函館新聞」の場合は、地元の有力者の出資と「朝日新聞」から新聞作成に優れた人たちと若干の機械や資材の提供を受けるという協力形態によったものである。具体的に述べると創立時の資本金は200万円で、本来、記者出身のジャーナリストではあったが、実業人としても函館商工会議所の会頭をつとめた遠藤清一とその関係者が大株主になったため、事実上の社主であり取締役会長ということになった。また、社長は戦前の「函館新聞」社長でもあった原忠雄が就任、その他の役員も地元の著名人が多くを占めていた。
 これらの経営陣に対して、「朝日新聞」からは比佐友香編集局長を筆頭に報道部、編集部、写真部、校閲部の部・次長などが派遣されてきて紙面作成を指導することになった。
 戦前とは明らかに違う雰囲気の民主的な新聞を作りたいという意図により、地元では記者として未経験な新人だけを募集し、多数の応募者のなかから厳選された優秀な採用者が2か月の研修を経て創刊に備えていた。そのほか、業務局、公務局でも人員募集がおこなわれ、最終的には全部で182人の陣容となったのである。

「函館新聞」創刊号の第一面(函図蔵)
 創刊号には、長年、要塞地帯で立ち入り禁止となっていて、この年の5月に一般開放された函館山の山頂から市街地を見下ろした大きな写真がトップを飾り、「新日本のホープ・わがふるさと函館」とキャプションがつけられていた。また、比佐編集局長の「創刊の言葉」によると、最初に、日本が民主主義国家として再生の道を図るため、その性格は「平和」と「文化」を重視したものでなければならないと述べている。さらに、言葉と文字のうえでの文化国家ではなく「生産」を母胎とした文化であり、生産こそは平和な文化国家を建設するためには絶対に欠くことのできない条件である。植民地を失った現在、日本の生産増強の希望は北海道に向けられており、未開発の地下資源をはじめ豊富な将来性を有する北海道を開発し、日本の生産経済を強化することは、言葉を換えていえば、文化国家としての日本の発展を生育するわけであり、北海道の玄関口・函館において我が社の創設の理由がある。要するに、言論活動を通じて民主主義日本の文化に寄与するところに我が社創業の根本精神が存するのである、と述べている(昭和21年11月29日付け「函新」)。
 創業当初は2ページの朝刊だけであったが、23年頃には新聞用紙の調達も比較的容易になってきたことから、翌年3月には週間「函新スポーツ」を発行することになった。3月19日付けの「函館新聞」には、待望の「函新スポーツ」第1号がタブロイド版4ページでいよいよ明20日に発売という予告が載っている。これには「日本野球の展望」、「道南軟式野球チーム紹介」、「ベーブ・ルースと函館」など地元に密着した話題ばかりでなく、全国のスポーツニュースやスポーツ読物が満載されていて、申し込み者へは「函館新聞」と一緒に宅配の便を図るということであった。
 その後、「函館新聞」の姉妹紙、「夕刊はこだて」が「あくまで夕食後の一時を一家挙って楽しく読めるような明るい夕刊紙をモットー」として編集する方針で夕刊はこだて社から発刊された(昭和24年11月15日付け「函新」*2)。連載小説は人気作家・野村胡堂の『銭形平次捕物控の内 娘変相図』を載せ、娯楽性の高さも重視したものと推察される。この新聞は正規の用紙割り当てを受けて発刊されるもので、道南唯一の公認夕刊紙ということにもなった。またこれを機に、戦時中の統制による「共同販売」制度が存続していた状態を打破し、読者と函館新聞社が直結することで全道に先駆けて「専売」制度を断行し、12月1日以降は他社の新聞を一切扱わない専売店を市内では5か所の新聞店に限定した(昭和24年11月24日付け「函新」)。
 「夕刊はこだて」は函館新聞社が受託印刷にあたっていたが、昭和25年3月27日の紙上に「夕刊函館新聞」と改題するという広告を出した。朝刊の「函館新聞」との連携をいよいよ密にして、歩調を合わせて一層読みやすく、ためになる、明るい郷土の新聞を目標に内容・体裁にも刷新を加えて読者の期待に添いたいという意向を示している。「夕刊函館新聞」は9月5日付けのものまで、発行所は夕刊はこだて社を名乗っていたが、事前の予告もなく翌6日付けから発行所は函館新聞社に変わっている。元来、函館新聞社と夕刊はこだて社は共に住所・電話番号も同じであったので、この時点から「函館新聞」に合併して、朝・夕刊紙として発行する態勢を整えたものであろう。
 しかし、「北海道新聞」の夕刊が戦後の復刊を遂げたのが同年3月28日(29日付け)のことであり、その対抗策を講じたものの、地元紙の方の資本力は低下の一途をたどり、発行部数も急減していった。
 ついに、「函館新聞」は昭和29年5月3日の紙上に、「五月三日は新聞協会決定の春季新聞休日でありますので、四日付夕刊および朝刊を休刊いたします 函館新聞社」という社告を掲載したまま、理由も示さずに5月5日の朝刊は発行されず、その日の夕刊のみで廃刊になってしまったのである。
 なお、その後40数日の空白期間を経て、地元紙の再刊を要望する市民の声に応え、6月28日付けで「夕刊函館新聞」が発行されている。この新聞は函館タイムス社というまったく別会社を組織し、旧函館新聞社の設備を賃借して発足したものであった。かつて、小樽新聞、北海タイムス、北海道新聞その他の新聞記者として豊富な経験を積んだ常野知義が社長となり、市内の有力者の好意による資金援助を受けてのスタートであった。
 昭和29年6月28日付けの「夕刊函館新聞」紙上の「復刊の辞」では、道南60万愛読者のために唯一の郷土の新聞として、編集方針も転換・刷新した紙面作成に努力していく決意を述べている。記事の内容も、以前にもまして地域密着型となり、函館市内をはじめ渡島・檜山地区の話題が多く占められるようになった。また、地元紙の復活を歓迎した市民からの同情と協力により、販売量も伸び、広告も増えていき、さらに朝刊を出して「一人前の新聞にしたい」と計画していたが、絶えず資金繰りとストライキの後遺症に悩まされ続けていたのである(常野知義「函新をつぶす迄」『海峡』44号)。実際には、7月4日付け「函館新聞」から日刊になったものの、併せて夕刊を発行できないまま、昭和31年3月31日付けの新聞を最後に、またしても廃刊という事態に立ち至ったのである。
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