通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
3 アメリカ・ソ連との交流

CIE図書館の成立とその活動

函館日米文化センターへの衣替え

ロシア語関係団体の結成と活動

CIE図書館の成立とその活動    P305−P312

 占領軍の影響力は、いわゆる文化的な側面にも及んだ。アメリカ文化の波は日本中に押し寄せ、函館でも次に述べるように積極的な施策として発露されたのである。昭和20(1945)年11月、連合国最高司令官は東京に英語の書籍やパンフレットなどを備えたCIE(民間情報教育局)図書館を設け、無料で一般大衆に開放した。アメリカは情報サービスの媒体として、図書館を重要視していたので、同政府は第2次世界大戦中から海外に図書館を設置し、アメリカを代表する各分野の図書を選定した「基本コレクション」を送り出してきた。占領下の日本にもその流れの一環として、図書館が作られたものと思われる。昭和22年8月23日付の「連合軍総司令部発日本政府宛メモランダム」では(「函館CIE図書館関係資料」、以下「CIE関係資料」)、次のようなことが述べられている。 一、連合軍最高司令官は、日本政府がポツダム宣言の下にその国民間の民主主義的諸傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去する義務の遂行において、外国クレヂットの欠如の為に当面する困難を慮つて、民主主義諸国から書籍および新聞雑誌及び新聞雑誌を供給する手配をした。
二、東京のCIE情報図書館所蔵の、そして熟練した司書の指揮の下に置かれて一層有数なものとなつたこれら刊行物の最初のコレクションは日本における最大の公共図書館よりも多数の閲覧者を日々吸収している。
三、其の証明済みの有効性の故に、日本国民が民主主義、その国民制度及び風習について知りたいと思い又知る必要のあるものを彼等に知り得るようにする為に、他の人口中心地にもこの図書館の支所を出来るだけ速やかに設立することを提案するものである。
四、この計画が公衆を裨益するものであることに鑑み、日本政府はあらゆる方法をもつてこの計画を促進することを望むものであることは言う迄もないことと考えられる。
 以上のような方針で、東京に続き京都と名古屋に図書館の設置が指示された。また同年12月には、福岡、仙台、札幌、高松、広島が追加され、加えて、1948年の上期までとして準備を促されている都市に、大阪、横浜、神戸、新潟、金沢、熊本、函館、静岡、長崎があったのである。
 上記の指示により、さ、まざまな準備がおこなわれたものと思われるが、函館には、昭和23年3月17日付けで「占領軍総司令部情報教育局図書課」が作成した英文による準備命令書が届いた(「CIE関係資料」)。事前の調査により設置場所は「共愛会館」に決まっていたらしく、同会館の1階を想定した図面が添付されていた。指示は備品や消耗品、人事のことまでかなり詳細なものであった。北海道からも打ち合わせのために教育部の担当者が来函した。GHQの図書館係官も来道して、7月末には開館できるように、5月には工事の着工をするように指令されたのである。
 同図書館の設置・運営は北海道があたるものであり、そのため道は函館市に見積もりを提出させた。諸経費の見積もりは約200万円ほどであった。一部が国からの補助(昭和23年度第1回として61万1000円)で賄われるものの、この時、函館市としても相当の負担を強いられることが予想された。そこで市では100万円を目標とする募金活動を開始したのである。しかし、昭和23年8月2日付け「函館新聞」の記事によれば、7月末日でわずかに4万円という低調なものであった。寄付金が最終的にいくら集まったかは不明である。
 後でふれるように開館は9月にずれ込んだが、北海道から予算の決定通知がきたのは10月に入ってからで、154万2920円という数字が示され、「尚経費の不足分については貴市に於て何分の補助を仰ぎたく申添えます」と記されてあった(「CIE関係資料」)。経費の内訳は、表1−53のとおりである。昭和23年度の函館市の歳出決算を見ると、「CIE図書館費」として39万8981円30銭が支出されているので(『函館市史』統計史料編)、やはり持ち出しがあったことがわかる。両方の数字を合わせると、初年度は194万1901円30銭で運営されたことになる。翌年以降には函館市の歳出決算には「CIE図書館費」という項目はみられず、市からの持ち出しがあったのは開設年度だけであったようだ。
 一方、人事については、日本語と英語ができる事務員4名を採用せよという指示があり、9月に嘱託として小林敏、當作守夫、古西昌夫の3名、事務補として市島久子、森地節子の2名が発令された。館長は当初、B・メントの予定であったが、先にオープンしていた札幌の図書館長E・K・キナーが転任した。アメリカのライブラリアン(図書館司書)の資格を持った専門家である。なおキナー以降の歴代の館長は表1−54のとおりである。
表1−53 図書館当初予算内訳(北海道から通知分)
科目
金額
備考
給料
 嘱託給
 雇員給
 傭人給
消耗品費
 燃料費
 消耗機材費
役務費
 印刷製本費
 光熱及水料
 修繕費
 借家及損料
備品費
 庁用器具費
 事務用器具費
219,520
123,360
45,760
50,400
146,000
140,000
6,000
563,400
5,000
37,600
476,000
44,800
614,000
567,000
47,000

3人、7か月
2人、〃
2人、〃

石炭代



電灯料、水道料
補修工事費


館内備品
1,542,920  
「CIE関係資料」より作成
表1-54 CIE図書館歴代館長
氏名
就任期間
E.K.キナー(Kinner)
G.M.コーブ(Korb)
W.K.リーパー(Leeper)
F.J.ハーサギー(Harsaghy)
G.G.ヤング(Young)
E.P.キャハレーン(Cahalane)
1948.9〜
1949.3〜
1949.6〜
1949.12〜
1951.9〜
1951.11〜
昭和23年9月1日、24年3月9日・12月25日付け「函新」、昭和24年6月12日、26年9月23日・11月29日付け「道新」より作成
 この図書館の開館については、ラジオやポスターなどで広報がなされ、昭和23年9月4日、国内では15番目の図書館として開館の日を迎えることとなった。
 9月4日は午前中に開館式がおこなわれ、札幌からやってきた北海道軍政部部長のウイリアム中佐や、園田副知事が祝辞を述べた。午後1時の一般公開には、市民がどっと押し寄せ、5時の閉館まで836人の入館者があったことが報告されている(「CIE関係資料」)。館内の本の配置は、従来の日本の図書館にはなかった開架式で、利用者が直接本を手にすることができた。蔵書は、スタート時の基本となる共通コレクションとして、一般図書3000冊とほかに雑誌やパンフレットが配備され、その後もアメリカからは、新しい書籍が追加で送られてきた。当初は館内の閲覧のみであったが、館外貸し出しもおこなわれるようになった。図書のほかに、レコードや映画フィルムも所蔵しており、講演や集会、英会話教室、学生の見学会などもあって、「アメリカ」という国や民主主義についての啓蒙活動はかなり広範なものであった。
 館長は、1週間ごとに図書館の状況報告、すなわち「週報」をCIEインフォーメーション・センター本部あてに送付していたが、この週報が、参考のためとして1部、函館市にも寄贈されていた(「CIE関係資料」)。報告書は英語でタイプされたものであり、ほかに市役所の回覧のために翻訳されたと思われる文書も1部が残されている。「週報」(現存しているのは1948年9月11日分から翌年4月2日分まで)は当時の活動の概要を知る上うえで大きな手がかりになるものである。報告書の内容は、終了した事業、継続中の事業、利用者からの照会・質問、それに各統計報告からなっている。統計から利用者数をみてみると、開館の翌週は、1日平均774人と市民の関心の高さが反映されている。その後は、1日平均250人前後から徐々に増えて、300人から400人という推移をたどっている。また利用者からの照会や質問は、多岐にわたっていて具体的なものから抽象的なものまであったが、新しい技術や知識を得たいという人びとの意欲が感じられる。このような利用者の増加に、24年の年頭には図書室の拡充が検討された(1月21日付け「道新」)。
 開館してからほぼ半年後の状況を「週報」で知ることができるが、注目したいのは利用者の60パーセントが小・中学生で占められていたことである。換言すれば英語が読めない利用者がかなり多かったということである。彼らはもともと英語文献の利用が目的ではないため、ライブラリアンにレファレンスの仕事がほとんどないという状況であった。
1949年3月25日から4月2日までの「週報」

T.活動
A 金曜日(四月一日)ニ利用者調査ヲ行フ。
B 新書陳列ノ為メニ複本及ビ古雑誌案内書ヲ取リ除ク。
C 建物監理者大上氏カラ−悪臭並ニ夏季ニ於ケル蠅ノ源泉デアル公衆市場ヲ図書館ノ近所カラ市当局ヲシテ取リ払ハシメル様ニ図書館長ノ威力ヲ行使シテハトノ−要求ガアツタ。ソノ事ハ最初図書館ノ場所ヲ選定スル時ニ考慮サルベキ要点デアツタノデアルガ、然シ図書館長並ニ図書館トシテハ近隣ノ民間並ニ経済的ノ衝突に巻込マレルベキデハ無イト確信シマス。
D 英語会話クラブヲ三度行ヒマシタ。ソノ都度図書館長ハ祭日ト云フ事ニ就テ話シマシタ。ソレテ、セクリスト著ノ祭日ト云フ書名ノ本ヲ推奨シマシタ。
E 郵便局、函館放送局、並ニ当別ノ農家デ活動写真ヲ見セマシタ。
F 函館公衆放送塔デ、レコードヲ放送シ、マタ、図書館ノ宣伝ヲシマシタ。

U.出席者ノ調査
第一表 利用者ノ回数調ベ
初利用者
時々利用者
屡利用者
46人
73人
105人
20%
33%
47%
第二表 利用者の年齢
20歳以下
20−30歳
30歳以上
180人
35人
9人
80%
16%
4%

第三表 図書館ノ事ヲ誰カラ聞イテ利用スル様ニナツタカ
新聞
ラジオ
広告ポスター
先生
友人
其他
合計*
52人
8人
26人
71人
61人
20人
238人
*数人ノ人ガ一ツ以上ノ回答ヲシタ故ニ人数合計ガ少シ違ツテ居リマス

第四表 利用者ノ職業別
学生*
無職者
先生
事務員
官公吏
技師
鉄工印職工
183人
14人
5人
8人
3人
2人
2人
81.3%
6.1%
2.3%
3.6%
1.2%
1.0%
1.0%
出版業者
漁師
写真屋
石鹸製造業者
肉屋
新聞記者
電話交換手
1人
1人
1人
1人
1人
1人
1人
0.5%
0.5%
0.5%
0.5%
0.5%
0.5%
0.5%
*学生ハ次ノ如ク細別セラル
大学生3   高等学校39   小学生59
専門学校生4 中学生73    裁縫学校5

 結論
1 図書館利用者ノ顕著ナル特長ハ若キ人デアルト云フ事デス。五分ノ四ハ二十才以下デアリマス(日本式ノ年令算ヘ方ニヨル)。職業別カラノ細別ニ依ルト60%ハ小学生及上級小学生[中学生]デアリマス。高等程度ノ学生ハ唯七人デアリマシタ。此ノ事ハ殆ド英語ガ読メナイカラ書類選択ト云フ事ニ重大ナル意義ヲ有シマス。此ノ事ハ参考図書館長[原語はreference librarian]トシテノ仕事ハ殆ド要求セラレナイト云フ事デス
2 他ノ土地ニ於ケル図書館ト比較シテ女子ノ利用者ハ稍多イ。
3 利用者ハ殆ド学生デスカラ宣伝ノ源泉ガ先生ヤ友達カラト云フ事ハ当然ノ事デス。ラジオニ依リ普通数人ノ利用者ヲ得ル様デス
4 出席者ノ殆ド半分ハ常ニ図書館ヲ利用スル人ニナッタ様デス

V.問合セ
1 実業家ガ整形学[プラスチック]ノ本ヲ
2 アル利用者ハ鼠ノ生存年月ヲ
3 アル写真師ガレンズ材料及感応の機械ヲ
4 子供雑誌ノ記者ガ教育的玩具ニ就テ
5 会社事務員ガアメリカノ簿記方法ヲ
                                                  ジョージ コーブ
                                                  函館支部代理図書館長
「CIE関係資料」より。[ ]は編者の注
 昭和24年9月2日には、開館1周年を記念した祝典がおこなわれ、リーパー館長の挨拶に続き、宗藤市長が市民を代表して祝辞を述べた。1年間を総括してみると、もっともよく読まれているのは、「ルック」や「ライフ」などの総合雑誌と「マドモアゼル」や「アメリカン・ガール」のような婦人雑誌であり、専門書では工学、医学、文学分野の需要があった。なお、一番困ったことは、書物からの切り取りであったという(9月3日付け「函新」)。

真砂町に移転したCIE図書館(昭和25年、「道新旧蔵写真」)
 図書室が狭かった問題も、新たな移転先がみつかり解決をみた。真砂町(現大手町)の旧専売公社跡を内部改装し、25年11月1日に新装オープンとなった。1階は一般閲覧室、特別集会室、映写室からなり、2階には子供室、少年室、雑誌閲覧室と防音装置付きのレコード室があった。北海道でも珍しい設備と採光を誇る図書館であると、新聞は伝えている(11月2日付け「道新」)。函館CIE図書館4代目の館長となったハーサギーも、後にまとめた論文(″Seventy Million Japanese Say ″Yes″Some American Cultural Influences in Japan″, Wilson Library Bulletin,1952 當作守夫氏提供)で新しい施設に高い評価を与え、利用者の増大はこの施設に負うところが大きいと述べている。サンフランシスコ講和条約調印直後の昭和26年9月9日には、ここで函館CIE図書館創設3周年の記念式典がおこなわれ、オズボーン在札幌アメリカ領事、ニュージェント総司令部民間情報教育局長、同局初等教育担当のアンブローズらが列席した(9月10日付け「道新」)。
 なおCIE図書館のサービスの一環として、「デポジット」という制度を設けていた。重複している図書や雑誌を寄託して、広く市民に利用してもらおうという意図があった。函館図書館の場合、大規模な室蘭デポジットを有し(昭和25年設置)、函館市内では、市立函館図書館、少年刑務所、北海道大学水産学部、北海道学芸大学函館分校、旭中学校、遺愛女子高等学校に団体貸出をおこなっていた(今まど子「CIEインフォーメーション・センターの図書館サービスについて−デポジット編」『図書館学会年報』第42巻1号)。
 CIE図書館は最終的に全国23か所に設置されて活動を展開したが、その役割は、それぞれの地域によって特色があった。すなわち、その地域の住民が求めているものが、全国画一的ではなかったということである。ハーサギーが前述の論文でそのことについて指摘しているので、以下に要約する。

 「日本各地のCIE図書館を取り巻く一般的状況は、全体に共通する一定の運営手続きや会計規則といったものを除けば、それぞれが大いに異なっていた。地域の実情や施設・設備の問題、職員の資質、司書の考え方や指導力、人格など、色々な条件で各図書館の状況が左右されている。函館の特徴は、東京と比べると際だって対照的である。それは基礎にある地域性の違いが最も大きい。東京はかなり国際的で様々な文化施設や娯楽施設がすでに十分機能しているので、この上必要とされるのは、より高度な研究機関としての機能である。
 一方、函館は人口は東京の17分の1で、教育的にも、娯楽的にも、また文化的にもあらゆる種類のイベントを呼び物にする地域センターを必要としていた。そのため、函館CIE図書館は文化的生活を向上させる模範として機能していた。プログラムはCIE図書館のなかだけではなく、道南一帯の学校、公民館、図書館、デパート、駅、公園、神社境内で展開された。その内容は、レコード・コンサート、教育映画、講演・フォーラム、英会話教室などである。さらに新しい文化グループの結成をうながすことになり、CIEペンパルス・切手クラブ、同写真クラブ、同芸術鑑賞クラブ、視聴覚教育研究クラブ、フォークダンス・スクェアダンスのクラブができた。このなかで、特に人気があったのはスクェアダンスであった。学校や公園を会場として開かれ、多い時には何千人という人が楽しんだ。スクェアダンスは、アメリカ文化のささやかな一片にすぎないが、アメリカ民主主義の「裏口」に人びとを引きつけるうえで、優れて役立っている。「表口」(これが我々の目的だが)までは、まだ後2、3歩ある」

 アメリカの民主主義を学ぶために、函館の人びとはようやく「裏口」にたどり着いたところだと、ハーサギーは感じていたようだ。先にも報告されているように、英語を読める階層が少なかったため、「表口」、すなわち書物を通じて学ぶという段階に至っていない函館の状況をこのように表現したのだろう。とはいえ、不十分であった市民のための「教育・娯楽・文化施設」という役割は十分に補ったものと思われる。
 もう1点記しておきたいのは、朝鮮戦争時の活動の模様である。この時期に開催された図書館主催の「国連支援集会」シリーズのなかで、朝鮮半島に出兵中の国連軍兵士に対する慰安活動が提案された。この提案は女性グループが中心であったが、函館市民が自発的におこなったものであった。「期せずして意見がまとまり、道内都市のトツプを切った」慰問品の山は、小学生の描いた絵や幼稚園生の折り紙細工、日本人形、保温用カイロなどと高校生による英文の慰問文であった(昭和26年2月22日付け、同3月6日付け「函新」)。ハーサギーはこれまでのアメリカ側の支援を日本側が理解してくれた結果だと喜び、リッジウェイ中将(マッカーサー元帥解任後の連合軍最高司令官)とバン・フリート中将(米軍第8軍司令官)から感謝の手紙が送られてきたのも、当然であると述べている(前掲ハーサギー論文)。
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