通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
3 アメリカ・ソ連との交流

CIE図書館の成立とその活動

函館日米文化センターへの衣替え

ロシア語関係団体の結成と活動

ロシア語関係団体の結成と活動   P314−P318

 『函館市史』通説編第3巻でふれたように、北洋漁業の基地であった戦前の函館では、さまざまな形でロシア・ソ連との接点があった。その後敗戦によって北洋漁業が壊滅状態になったことはすでに述べられているとおりである。また世界情勢は朝鮮戦争を経て、東西冷戦の時代に突入し、日ソ関係はしばらくの間疎遠なままであった。
 昭和30年代に入ると日ソ国交回復(31年10月29日共同宣言)を契機に、おもに経済・文化を中心に両国の間に交流がみられるようになってきた。函館でもソ連との交流を期待して、この時期にはいろいとな動きがみられた。船見町にあった廃屋寸前の「旧ロシア領事館」は、昭和31年から翌年にかけて、外務省の委嘱で管理をしていた北海道が補修工事をおこなった。すっかりきれいになり「ロマンチックなはこだて名物の一つ」になったこの建物が、領事館として再び使用されることが市民の願いであった(昭和31年1月13日、同32年1月10日付け「道新」)。

ロシア語版の函館港宣伝用パンフレット(昭和37年、「道新旧蔵写真」)
 昭和33年には占領が解かれてから初めて、函館港からソ連に向けての輸出がおこなわれ(11月13日付け「道新」)、35年5月には函館貿易協同組合が全ソ消費協同組合中央連合との貿易契約に調印した(6月5日付け「道新」)。また37年には、函館市によりロシア語版の函館港の宣伝用パンフレットが作成された(2月22日付け「道新」)。停滞していた貿易港としての復活をソ連との交流に求めたのである。
 このような情勢下、昭和31年11月25日、「日ソ通訳会」が結成されている(11月25日付け「道新」)。「一九七〇年度 日ソ通訳会々員名簿」によれば、会長は日魯漁業(株)の顧問近江政太郎で、矢野康函館市長ほか2名が顧問となり、事務局は幹事長の福原登宅になっている。45年2月現在で会員数は48名となっているが、顔ぶれをみると大半は戦前に漁業会社のロシア語通訳として働いていた人たちであった。前述の名簿に記されている創立の趣意は、「日ソ国交回復と共に両国間の漁業及び貿易を始め文化の交流にも一大転機をもたらさんとする今日吾々の使命は益々重大性を増してきたことを痛感するものであります。日ソ関係に於て、永い伝統と輝かしい歴史を誇る函館在住の吾々は本来の技能を益々研磨し両国間の親善促進に努力すると共に漁業及び貿易の発展興隆に貢献せんことを期するものであります」ということであった。
 会員の仕事は、通訳として北洋漁業再開後の出漁母船に乗り組んだり、ソ連からの木材輸入船に乗り組んだりというのがもっぱらであり、この日ソ通訳会を結成したのも業務遂行のための情報交換ならびに会員同士の親睦はかるためであったと思われる。したがってその活動は一般市民とはあまり接点がなかったようである。
 前述の日ソ通訳会とは別に、昭和30年代に積極的にロシア語と関わりを持ちたいという人たちがグループを組織するに至った。その中心人物は、昭和24年にシベリア抑留から復員した本間哲男である。その時の動機は、「せっかくおぼえたロシア語を私自身忘れたくなかったし、1人で勉強するよりも、多くの人と勉強した方が楽しいのではないか、ロシア語の学習を通じて沢山の人と友達になれたらと思った」(本間哲男談、以下「本間談」)ということである。こうして本間のもとに同好の士が集い、31年にロシア語講座が開かれることになった。それは「函館ロシア語研究会」の誕生でもあった。この研究会の信条は、政治や思想に影響されてはならない、誰でも気軽にロシア語が勉強できる、という2点であった。この頃は反ソ反共ムードが強く、語学といえば英語一辺倒で、「本間の勇気ある行動に常々ロシア語を学びたいと思っていた同志が集まった」という人もいる(小野弥生談)。
 このロシア語講座の講師となったのは成田ナジェージダで、ロシア極東の都市ニコライフスクに生まれ、ロシア革命を逃れて来日し、その後ロシア語通訳をしていた日本人と結婚して函館で暮らしていた。戦前から函館商業高等学校でロシア語を教えたことがあり、そこで本間が授業を受けていたことが縁で、講師を引き受けてもらったそうだ(「本間談」)。
 32年には、市立函館図書館と日ソ協会函館支部(昭和32年に発足)の後援を得て、広く会員を募って講座が開かれることになった。同年3月20日付けの「北海道新聞」にロシア語講座の案内が掲載されている。それによれば、会期は4月11日から6月27日までで、毎週金曜日の夕方6時半から開かれた。その時のテキストはロシア語友の会編『百万人のロシア語』であった。同34年からは定期開催になり、この年を第1回として、以降毎年、途切れることなく講座が持たれたのである。しかしその間には、「何回目かの講座では、私と成田先生の2人きりとなって、先生はもう止めようかと言われましたが、今、このロシア語の灯を消したら、公共の場で二度と講座は出来なくなる、だからもう少し辛抱してください」というほどの危機もあったという(「本間談」)。

昭和30年代初頭の講座の様子(本間哲男蔵)正面は成田ナジェージダ、立っているのが本間哲男
 この講座に集まったのは、初期の頃にはサハリンからの引揚者、ソ連からの復員者、日魯漁業(株)に勤めていた人、北洋漁業再開後に通訳として漁業会社の母船に乗り込んでいる人、ソ連からの木材輸入運搬船に乗っている人など、すでにロシア語と縁のある人も少なくなかった。戦後はソ連との関係が希薄になったとはいえ、函館にはロシア語を受容する風土が依然として残っていたことがうかがわれる。もっともその他の参加者は多様であり、職業は公務員、教員、会社員、主婦、学生と多岐にわたり、年齢層も幅広かった。彼らの動機は耳学問で覚えたロシア語を正式に学びたい、日ソ友好のためロシア語を身につけたい、語学的に興味がある、専門分野の研究上必要である、趣味・教養としてという理由が多かった。
 昭和37年7月3日付けの「北海道新聞」は、2年後に東京オリンピックを控え、函館の語学熱が高まっているという記事を掲載している。それによるとこの年のロシア語研究会には12名の会員がいて、みんな中級程度の実力になっており、近く開講予定の「初級講座」にもすでに申し込みがあると記されている。
  なお、会員のうちからは、後に同会の講師となるほど実力を付けた人もいた。山田誠二は、大学時代に成田家に通って勉強し、その後も講座で勉強を続けて講師となった。吉岡正敞は大学でロシア語の授業を受けたそうだが、昭和37年から10年間、講座で成田ナジェージダの教えを受け、48年から講師として補助をした。2人の証言によれば成田の教師としての資質は、非常に高いものであったという。
 昭和41年に日ソ領事条約が調印されると、函館市や商工会議所を中心に、ソ連領事館を誘致しようと推進期成会が発足した(昭和42年2月7日付け「道新」)。市長自らも関係機関に陳情をおこなうなどしたが、ソ連領事館は札幌市に開設され、実現には至らなかった。それでもソ連との交流を密接にしたいという流れは変わらず、函館市は47年6月6日から1週間、市制施行50周年記念「函館市民の船」を仕立て、277名の市民がナホトカ市とハバロフスク市を親善訪問した(『市制施行五〇周年記念函館市民の船』)。
 こうした熱意が実ったのか、昭和50年代には、函館ドックでソ連の船舶の建造や修理が頻繁におこなわれた。ロシア語講座の参加者たちは、このような機会を利用して、生きたロシア語にふれようと団体でソ連船を訪問するなどして交流を図った。親睦を深めただけではなく、来函中のロシア人が突発的な病気やけがなどで市内の病院に入院した時などは、ボランティア通訳として働き、患者はもちろん医師や看護婦からも感謝されたことがあった。しかしその陰では、公安調査庁の担当者から質問を受けたり、「ロシア語」を勉強していることで、職場で疎外感を覚えることもあったという。ロシア語講座が一番充実していたともいえるこの頃は、全道ロシア語弁論大会(日ソ協会北海道連合会主催)でこの講座からも何人かの入賞者を出していて、50年度は上級の部で当時上磯高等学校の教師であった小笠原晧允が優勝した。なお、昭和47年に開かれた札幌オリンピックでは、善意通訳として会員みんながバッジをもらったそうである(「本間談」)。
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