通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第5節 戦時下の諸相
3  強制連行と捕虜問題

2 朝鮮人の強制連行

強制連行の開始

協和会の設立

朝鮮人の「移入」状況

函館市の事業場

東日本造船(株)の場合

函館船渠(株)の場合

朝鮮人労働者の抵抗

強制連行の開始   P1243−P1244


記事に添えられた写真(昭和14年10月5日付「函新」)
 昭和14(1939)年10月5日付けの「函館新聞」は、「国防服も颯爽/ハリ切る半島の産業戦士/燈管下の函館へ上陸」との見出しで次のように報じた。

生産拡充に伴ふ労働力の不足を補ふため、本道各地の作業地に移住することになつた三菱鉱業所扱半島人労働者部隊の第一陣三百五十名は、既報の通り昨三日午後函館入港の島谷汽船長成丸で到着、船内検疫を済した後、午後五時半、時あたかも北部防空訓練第二夜の燈火管制下にひつそりと黒一色のヴエールを被つた港内を大艀に揺れながら函館駅桟橋に上陸して、同五十分発の長万部行下り列車に分乗、夫々の目的地に出発したが、颯爽たる国防服あるひは背広服の中に、点々半島特有の長袴に山の高い帽子をも交へた大陸の肝漢連は、上陸第一歩の新土が余りに真暗闇なためいさゝか面喰つた容ちでもあるが、然し銃こそ持たね−同じ祖国の第一線に立つて生産拡充、国富開発に邁進するの機会を与へられた喜びと元気一杯のハリキリ振りだつた。

 この記事には、「函館桟橋へ上陸する鮮人産業戦士」という津軽要塞司令部検閲済みの写真も添えられており、いわゆる朝鮮人強制連行の始まりと函館との関係を示す貴重な資料である。但し、昭和14年から開始される北海道への朝鮮人強制連行において、10月2日の室蘭港に次ぐ第2陣が上陸したのが函館港であるとはいえ、これらの朝鮮人労働者達は、それぞれの目的地に向かってすぐ列車で出発したように、函館は彼等の労働の場ではなく、基本的には通過点としての性格が強かった。2年後の昭和16年1月、朝鮮人労働者の「保護取締」のために警察費予算が増額され、北海道全体で36人の巡査が増員されたが、視察係巡査部長1人の増員が認められた函館水上警察署の場合、その「増員理由」として次のように述べられている。

 昭和十四年以降現在迄ニ半島人稼働者約二万名本道ニ移住ヲ見タルガ、其内三千名ハ既ニ逃走シ、之ガ検索取押ハ殆ド函水署ノ手ヲ煩ス状態ニシテ、発見ニ係ルモノ約一千名ナルガ、現在ノ定員ヲ以テシテハ到底其ノ完璧ヲ期シ得ザルヲ以テ、国費ノ増員ト相俟ツテ之ガ取締ノ徹底ヲ期サントス、
                       (樋口雄一編『協和会関係資料集』V、緑蔭書房、平成3年)

 このように、本州方面との連絡路にあたる函館は、道内の現場から逃走した朝鮮人労働者を「検索取押」える上で、大きな役割りを担っていたのである。
 なお、この時長成丸で来道した300人余の朝鮮人は、札幌の手稲鉱山と轟鉱山に送られている(同年10月3日付「函日」、なお、同紙によれば「長成丸」で来道した朝鮮人は、328人である)。
 この強制連行に先立って、大正期から昭和初期にかけての函館にも、朝鮮人の来住、定着がみられつつあったことはすでに触れた。昭和14年3月現在では、市内在住の「半島人」は「七百数十名」といわれ、その中で古物商を営む者が「十数名」いた。また、これらの朝鮮人達は田村春源を代表とする函館新興共済会を組織していたのである(昭和14年3月11日付「函日」)。
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