通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

アポロ音楽会の解散   P862−P864

 会の代表者であった工藤が樺太転勤となり、大正7年4月の第13回は、工藤の送別を兼ねて開かれた。「牧歌」「自然の音楽」「海」といった工藤の作品も演奏され、閉会後演奏者一同で記念撮影をした(4月26・28日付「函新」)。工藤は明治15(1882)年に七飯町に生まれ、東京音楽学校を卒業後、同43年函館高等女学校に着任、大正期に入りアポロ音楽会を結成し活動に入った。その工藤の離函でアポロ音楽会は存続の危機を迎えたが、伊藤順造が会長となって活動を継続し、10月には、工藤の後任の函館高等女学校音楽教諭佐藤豊吾を加えて、第14回演奏会を開催した。同8年には音楽普及の目的でバイオリンなどの教授所を設置したが、長続きしなかった。会を支えた中心メンバーであったラングマンが函館を去り、中川も音楽の勉強の為に東京へ出たため、8年7月に予定された演奏会は中止となり、アポロ音楽会は、工藤の持つ求心力を失って、空中分解してしまった。
 アポロ音楽会は、「我国は万国音楽博覧会」という工藤の音楽教育論により、洋楽と邦楽一緒の演奏会というスタイルを続けた。そのスタイルのために演奏内容が通俗的と言われたが、洋楽の受容における啓蒙的役割は見事に果たした。たとえば春秋の演奏会は年中行事のように市民に親しまれ、さらに会員は函館高等女学校や弥生小学校へ出掛けて演奏したり、勤務先の学校の音楽教育を向上させるなど、音楽普及の裾野を広げた。また「音楽を望む」多くの人にステージに立つ機会を与え「相応にこなし得るだけの技量を造ること」を実践するための「最も適当なる試練機関」ともなった(大正7年2月25日付「函毎」)。こうして工藤が主宰したアポロ音楽会は、多くの音楽愛聴者だけでなく、音楽を演奏しようという人をも育てていったのである。道内を見ても、アポロ音楽会は、大正前半期にまとまった音楽活動を行った先陣として、高く評価されている。
 その後、工藤は札幌などで音楽教育の発展に努め、中川は小樽の音楽界に大きな足跡を残した。

増田作太郎(前列左から4人目)らの音楽会
 大正後半期、アポロ音楽会のような継続的な音楽団体の活動は見られなかった。とはいえ、増田作太郎や北上美芳、三俣保暁のグループが何度か音楽会を開催するなど活動している。増田は、明治20年代に東京ニコライ堂の詠隊学校で声楽と器楽を学んだ後、昭和20年まで函館ハリストス正教会で詠隊教師を務めるとともに、音楽講習会を主宰し、教会内外に音楽愛好家を育てた(厨川勇『函館ガンガン寺物語』)。また、サムライ呉服店の後継者であった加藤兵次郎は、欧米視察から帰国後まもない大正9年、函館道路改善会を組織して船橋栄吉、柳兼子らの音楽会を主催した。同10年には函館社交舞踏会を作り、米、露、独などの在住外国人も参加しての仮装舞踏会を公会堂で開いたが、加藤のいう「世界的交際法」としての「社交舞踏」は函館では受け入れられず、12年大阪に移住、社交ダンス普及の夢を追い求めた(永井良和『にっぽんダンス物語』)。
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