通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

音楽教育とその活動   P872−P874

 学校での唱歌教育は次第に定着し、大正後半期には函館の小学校でも、唱歌大会が盛んに開かれた。一方、文部省製の唱歌に対抗し、児童自身の言葉と感情に即して、子供の歌を創造しようとする童謡運動が全国的に展開されていた。函館では、大正11(1922)年4月、函館毎日新聞社主催の第1回童謡童話劇大会が開かれ(4月24日付「函毎」)、トラピスト修道院で講師を務めていた三木露風が指導、講演をした。函館の運動は先進的なものであったが、同12年11月の第4回大会の直後に文部省当局から全国的に児童の公演が禁止され、函館の大会も中断されてしまった(伊東酔果「函館童話劇運動事始終」『生』第2巻第1号)。なお童謡運動の推進者のひとり野口雨情は、大正12年、昭和8年と来函している。
 大正の運動を引き継ごうと、昭和4年2月に函館童話劇研究会が第1回「コドモの会」を開き、第3回が8年8月に開かれた。また童話会も盛んとなり、5年に発足したオテントサン童話会は、大火前まで150回を超える会を開催し、プレクトラムオーケストラがしばしば共演した。同8年には、函館童謡研究会(後すかんぽ童謡社と改称)が結成され、9年12月片平庸人の童謡集を出版した。片平の創作童謡はレコード化もされている。こうした童謡童話の活動も大火後は次第に低下していく中、どんぐり童話会は戦争準備に寄り添うかのように国威宣揚、皇軍戦勝祝賀、皇軍武運祈願といった子供大会を続けた。同人は市内と郡部の小学校の教師たちで、代表は海老名礼太だった。
 中学生の演奏会も盛んになった。大正期に工藤富次郎の指導のもと毎年校内で音楽会を開いていた函館高等女学校は、大正13年に公会堂で、函館の女学校としては最初の公開演奏会を開催した。函館師範学校は、大正8年頃から年2、3回の音楽会を開催し、12年函館中学校、13年函館工業学校、昭和2年函館商業学校と、それぞれ音楽部が第1回音楽会を開催した。昭和7年、遺愛女学校創立50周年記念式では、ハイドン「天地開闢(創造)」やヘンデル「ハレルヤコーラス」が生徒により合唱されている。大正12年の函館中学校音楽会にはハーモニカソサイテーが登場した。その後函館中学校系の函館ハーモニカソサイテーと函館工業学校系の函館リードバンドが、相次いで公開演奏会を開催し、ハーモニカ全盛時代を迎えた。昭和6年には函館中学出身者が大森ハーモニカ合奏団を設立、9年には新響ハーモニカアコーデオン合奏団と改称した。また、8年には函館商業学校出身者による函館マーキュリーハーモニカオーケストラが第1回演奏会を開き、10年にはベートーベンの交響曲「運命」全曲を取り上げるなど、前田嘉徳を指揮者に演奏会やラジオに活躍した。なお、函館工業出身で函館ハーモニカ研究会長の佐々木正が数回独奏会を開いた。
 昭和8年から毎年11月に日本教育音楽協会主唱による音楽週間(第5回から音楽報国週間と改称)が始まり、初年度は東川小学校で音楽展覧会が開催されたが、次第に各学枚がこの週間に合わせて音楽会を開催するようになった。なかでも、函館高等女学校は合唱やピアノ演奏が好評で、第6回からは会場を日魯講堂に移し、毎回盛況であった。
 昭和に入ると各学枚の音楽教師も個人演奏会を開くなどの活動をするようになった。たとえば3年には高橋長一郎の独唱会や酒井武雄のピアノ、オルガン独奏会、4年に五十嵐富士男の独唱会などが開催された。また5年に独唱会を開いた細矢珠子は、大正13年函館高等女学校の音楽教師に着任し優れた成果を残したが、昭和10年12月帰らぬ人となった。東京で合唱団の指揮者として活躍した日高脩は、昭和6年11月に函館実践高等女学枚の音楽教師として来函、大火で実践高等女学校が廃校となり函館を去っているが、その間市内10数校の小学校の賛助出演を得て3回の音楽会を開催したり、函館中学校でも音楽を教えるなどの活躍をした。
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