通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

外国からの来演   P871−P872


ボリス・ラス独奏会のロシア語による広告(大正15年9月12日付「」函新)
 前述のアポロ音楽会の演奏者中にも多数の外国人の名が見えたが、大正期は第1次世界大戦やロシア革命によって祖国を離れ、日本を訪れるロシアの音楽家が増えた。函館には、大正7(1918)年から15年にかけてロシアの一流音楽家が来演したことを地元の新聞は報じている。同13年8月には、ルーマニアの9歳のバイオリニスト、トーリャ・ポッパの演奏会が、デンビーやレベデフ夫妻の斡旋により、函館在住外人社交倶楽部の主催で開催されるなど、祖国を離れた音楽家たちは函館在住の外国人により暖かく迎えられていた。
 昭和期も海外の音楽家が続々と日本に押し寄せて来た。昭和5年に来演したバイオリンのジンバリストの場合は、ギャランティーが高く、4度目の来日でようやく函館公演が実現したものだった。1500余の聴衆を前に、カウフマンのピアノ伴奏でメンデルスゾーンの「(バイオリン)協奏曲」からクライスラー「タンボリン・チャイナ(中国の太鼓)」まで9曲を演奏し、「完成された技」を披露した。「アンコールの嵐」だったが、「無作法な声で例によって『アンコール』と怒鳴るこの土地の、奇怪な風習」はジンバリストを驚かせた(5年10月20日付「函新」)。またジンバリストは演奏会場の松竹座についても、殺風景で不快の余りに「世界中で函館程気分の悪い所で演奏した事は且て無い」と憤ったといわれ、収容力の都合とはいえ音響的にも音楽家に評判のよい公会堂にすべきだったとレコード愛好会員は意見を述べている(5年11月8日付「函日」)。そのせいか、7年に小樽、札幌、10年には旭川、札幌と道内公演したが、函館では開かれなかった(前出『北海道音楽史』)。
 昭和9年の大火による経済力低下が、札幌と比較してその後の函館への外国音楽家の来演を少なくさせた。象徴的なのが、11年4月、札幌で開かれたケンプのピアノ独奏会である。ナチスドイツ政府の音楽使節として来日、函館での開催が内定していたが、引き受け手が決まらず結局実現しなかった。奔走した新聞記者は、流行歌の演奏会では大入満員だが、「純粋の音楽」になると「現在の函都楽壇は札、樽地方の楽壇にくらべて非常にさびしい」「愛好者が一魂となった音楽団体が欲しい」と残念がった(4月1日付「函新」)。10月には、作曲家でピアニストのチェレプニンも札幌、小樽で公演したが、函館は日程が合わず通過するだけとなった。同15年に、ロシア生まれで上海在住のピアニスト・サハロワが避暑のため来函した機会に演奏会を開き、ドイツ音楽使節のミュラー・シャピュイが、得意とするシューマンのピアノ曲を演奏したのが、函館における戦前最後の外国からの来演となった。
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