通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

5 造船業・機械器具製造業の動向

造船業・機械器具製造業を支えた経済的諸要因

統計より見た金属工業・機械器具工業(造船業を含む)

造船業の推移

機械器具製造業の推移

大火の影響と工場分布、工業組合の設立

大火の影響と工場分布、工業組合の設立   P485−P488

 大正10年4月14日の大火は末広町、十字街の繁華街2000戸を焼失した。しかし、工場地帯は外れていたため被災を免れた。昭和2年の造船所、鉄工所の分布を図2−10−Aに示す。造船所は真砂町地区にかたまっているが、有川地区、弁天地区にもある。鉄工所は造船ブームを契期に真砂町地区が密集地帯となった。他は西川町と東川町にかたまっている。この付近は明治時代は市街地の周辺であったが、市勢の伸張に伴ないこの外側の松風町、駅前地区が函館の副都心となり工場地帯は双方に挟まれてしまった。昭和9年3月21日の大火は函館市の大森浜側、東南部の半分、2万2000戸を焼失し、罹災者10万人を出す大災害となった。西川町、東川町は罹災したが、幸運にも真砂町の造船所、鉄工所群は類焼を免れた。造船業者の罹災は14工場、鉄工所は39工場である。罹災地は商業地域に指定されたため、一部は郊外へ移った(図2−10−B参照)。しかし、法の改正で元の場所に仮設置を認めたので復興は急速に進んだ(『函館商工会議所年報』昭和9年)。


図2−10−A 造船所・鉄工所の分布
●印 鉄工所 ■印 造船所
大正14年「函館地番明細新地図」、『機械工業史 其の四』より作成


図2−10−B 造船所・鉄工所の分布(昭和14年)
●印 鉄工所 ■印造船所
昭和14年「実測函館詳図」、函館鉄工機械工業組合「工場能力調査票」昭和14年、函館商工会議所「工場表」 昭和13年、「北海道南部木造船工業組合名簿」昭和13年より作成
 函館造船業組合は賃金決定に大正9年より船大工の造船木工組合と交渉して協定を結んでいた。昭和8年にはストライキが行われ、市の斡旋で解決したこともあった。また、昭和2年と7年には日魯業(株)に「漁船注文申受に付御願」を陳情しそれなりに効果をあげた。9年に、組長の船矢早吉が没し、続隆吉があとを継いだ。11年の組合員は26名で、函館木工組合とは最低賃金2円10銭で協定を結んでいる(「函館造船業組合記録」、昭和3年起、昭和6年起)。
 明治28年に鍛冶業組合ができたが、準則組合として認可されたのは、明治42年5月で、初代組合長は池田勝右衛門であった。大正7年に鋳物、機械製造業を加えて函館鉄工業組合と名称を変えた。組合長は目黒徳次郎、内田浅吉へと引継がれた。昭和9年10月、大火で罹災した鉄工所が主となり、復興資金を借りる目的で新たに工業組合法に基づく函館鉄工機械工業組合を設立した。組合員66名、出資金3万円で、理事長は鍛冶業で新潟出身の2代目花野才松である。旧組合員もこれに加わり、債務保証や復興資金の貸付をうけた。12年には共同施設として大型鍜造品専門の(有)共同鍜工所(大縄町)を作った。(なおこの細節の造船業、機械器具製造業の記述は前掲の「函館機械工業史 其の四」、「函館機械工業史 其の二」『函館工業高等専門学校紀要』合本 1980、『函館の商品』函館市役所 昭和9年版・13年版、『函館機械関連工業の歩み』函館機械関連工業連絡協議会、昭和45年刊を参照した。)
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