通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

5 造船業・機械器具製造業の動向

造船業・機械器具製造業を支えた経済的諸要因

統計より見た金属工業・機械器具工業(造船業を含む)

造船業の推移

機械器具製造業の推移

大火の影響と工場分布、工業組合の設立

機械器具製造業の推移   P479

表2−85 営業業種別による工場数(昭和2年)
大分類
工場数
機械製造修理業
26
鋳物業
14
ボイラー、タンク
鉄製構造物製造業
16
鍛冶業
46
諸車製造修理業
4
鉄板、銅板加工業
2
その他
2
『函館機械工業史 其の四』(函館高専紀要)
 機械器具製造業は大正期の造船ブームで膨張した施設や機械設備がそのまま北洋漁業関連の機械や資材の製造に引き継がれた形である。特徴的なことは漁期の関係で閑繁の差がはげしかったことである。出漁準備の10月から翌年の4月までの繁忙期は全能カを盡しても需要に応じきれない状態であったが、その他の月は仕事が少なく、この時期の需要の掘起しが課題であった。表2−85は鉄工所を営業業種別に分類したが、この中で機械製造業、鍛冶業の多いのが目につく。なお、この頃から鉄工場は鉄工所と呼ばれるようになった。表2−86は主な鉄工所の営業成績であるが、個々にみると経済変動の中で減資や廃業する工場もでてきた。次に業種別に主な鉄工所について述べる。


表2−86 主な鉄工所の営業成績と従業員
工場名
住所
経営者
創立年月
営業内容
営業(収益)
税額(円)
従業員数
大正11
14
昭和2
5
7
9
11
昭和2年
(株)有江鉄工所
星野工業(株)
高田鉄工所
目黒鉄工所
山村鉄工所
池田鉄工所
内田鉄工所
(合資)寺中鉄工所
関商会
寿工作所
大長鉄工所
山口鉄工所
上原鉄工所
似内鉄工所
村瀬鉄工所
共和鋳造所
林鋳工所
川嶋砲金工場
武田鉄工所
木下鉄工所
北立建材工業所
魚津鉄工所
鐙谷鉄工所
正直刃物製作所
木田製鋸所
日魯漁業台場町工場
函館水電車両工場
札幌鉄道局五凌郭工場*
東川町127
東川町209
真砂町3
真砂町7
真砂町3
豊川町35
真砂町2
真砂町4
西川町19
真砂町2
西川町93
西川町48
豊川町41
真砂町3
栄町226
真砂町2
新川町309
真砂町2
真砂町2
真砂町2
千代岱55
旭町237
西川町65
西川町98
栄町123
台場町67
新川町309
亀田字港
有江利男
星野尚次
高田松太郎
目黒徳次郎
山村金蔵
貝森平治郎
内田浅吉
寺中由太郎
関豊作
佐藤善蔵
出川大一郎
山口甚三郎
上原寿
似内儀三郎
村瀬定次郎
岡本久平
林菊松
川嶋善次
武田金太郎
木下富蔵
清水四郎
魚津栄松
鐙谷由太郎
古川富太郎
木田伝作
平塚常次郎
常野伝吉
今井重道
明治18.2
明治30.3
明治31.4
明治41.9
明治38.8
文政10頃
大正3.4
大正6.11
大正5.4
大正15.6
大正6.10
明治39.9
明治40.9
大正10.5
大正40.7
大正12.1
大正7.11
大正.7.6
大正6.1
大正14.2
大正15.7
大正12.8
明治23.6
明治33.6
明治40.6
大正4.4
大正2.10
明治35.12
製材機械、ボイラー、締銅、硫黄釜
鉄製構造物、諸機械、硫黄釜
舶用機関、ボイラー、機械鋳物、鍛冶
舶用桟関、ボイラー、錨(鍛冶)
舶用機関、缶詰機械、ボイラー
舶用機関、鍛冶
舶用機関および機器
舶用機関、締銅、漁業用ウインチ
揚綱機、揚網機、焼玉機関
焼玉機関
舶用機関
諸機械、ボイラー、鉄製構造物、錨(鍛冶)
舶用機関および機器
同上
ストーブ、水道器具、照明灯(銑鉄鋳物)
機械鋳物(銑鉄鋳物)
同上
6スクリュー、軸受、鐘(青銅鋳物)
ボイラー、タンク、鉄製構造物
同上
建築用鉄扉、鉄製サッシ
建築金物(鍛冶)
船釘、錨(鍛冶)
料理包丁、大工用刃物、(刃物鍛冶)
丸鋸、帯鋸、フィッシュカッター
缶詰機械、船用機関
電車修繕.
客貨車修繕
780
613
97
75
43
48
36
120
29


24
33

38



34








884
500
196
157
72
66
69
84
35

32
37
36

34

17

50
16


13




149
500
203
168
70
56
83

87

64
53
42
19
75
47

25
50
25

25
23
23
21



500
201
162
53
86
58
18
106

67

4
26
112
64
23
33
53
53
30
30
30
26






74
36
38
27

55

36
74
19
24
81
22
16

15
19
54
16
17

17





48
59
54
35

17

36
17
19
37
27
35
16
27
29
33
63
16
17

17





45
74
100
19
16
125

79
87

48
84
45
37
4
37
40
68
24
27
29



85
40
31
50
14
16
20
(大14)22
9
24
11
36
5
5
11
11
6
5
7
12
10

5
6
(昭3)5
111
40
(昭9)192
注)1 営業税額(昭和2年から営業収益税)は『函館商工名録』より、括弧付の従業員はその年度の『函館市統計書』『函館商工会議所年報』より
   2 住所、経営者、創立年、従業員は昭和2年の『函館商工会議所年報』よりとった。
   3 本間鉄工場(昭和9年設立)、富岡鉄工所(昭和10年設立)はこの間の商工名録に記載がないので除いた。
   4 昭和8年設立のウロコ鉄工部は亀田村字港へ移ったので記載がない。
   5 *は大正8年、機関車の修繕工事を廃止、11年港の現在地に移転する。
   6 税額は円以下は切り捨てた。

機械製造業   P479−P483

 (1)一般諸機械。(株)有江鉄工所は震災後の東京へ製材機械(バンドソー、おさ鋸盤)を供給した。また、興隆期の夕張炭鉱へ炭車、捲上用ウインチ、ポンプなどを北洋漁業向けに缶詰機械を納入したが、昭和6年、累積赤字のため専務の有江利男は辞任し、30万円に減資して(株)ウロコ鉄工部に改組した。ここは鋳物、鍛造部門を引継いだが、9年の大火後、亀田村字港355へ移り、需要の多かった魚粕用圧搾機(締胴ともいう)や、国内化学工業の勃興で市況が回復した硫黄鉱山(松尾、三盛)向けに硫黄釜を製造した。設計と機械部門は東京へ移り昭和8年(株)ウロコ製作所となった。星野工業(株)は奥尻、十勝の鉱山へ硫黄釜を供給し、また、炭鉱用の炭車や漁場用のストーブを大量に作った。青銅製品は消防の鐘、梵鐘、スクリューなどである。大火後、亀田村字本町へ移ったが業績振るわず昭和17年に廃業した。
 (2)舶用汽機、内燃機関。高田鉄工所は汽船の大型化で小型の汽缶、汽機の需要が減少し、機帆船や漁船の焼玉機関の仕事が主となった。昭和4年に親戚の山城市三郎が引継いだが、8年に廃業した。目黒鉄工所は昭和13年頃までは盛況であったが、14年に福田春治が経営を引継ぎ(丸源)函館鉄工所として再発足した。池田鉄工所は工場長だった貝森平治郎が、大正13年に事業を引継いで業績を伸ばした。大長鉄工所は高田鉄工所出身の出川大一郎と三浦長吉が大正6年に創立したもので舶用機関の新造修繕を得意とした。
 (3)漁業用機械。関商会は新潟県出身の関留八郎の設立で、大正7年に関留式延縄捲揚機でパテントを得た。没後、養子の豊作があとを継ぎ、昭和5年に関式揚網機を発明した。また、10年には北海道で始めて漁船用無注水式焼玉機関(10馬力)を作り、北海道の農林省検定第1号となった。(合資)水谷商店(昭和3年創立)は店主水谷元右衛門がパテントの魚粕用圧搾機を大量に作り道内、樺太に供給した。木製角型だった締胴は鉄製の円筒状となり操作も容易になった。

(左)A アストリア 4DS シーマー 、丸缶用(日魯鉄工所) 770kg 1馬力
(右)B 125型 自動シーマー 楕円缶用(本間鉄工所) 800kg 1 1/2馬力

日魯鉄工所 工場外観
 (4)缶詰機械。缶詰機械のシーマーやクリンチャーは米国のアメリカ・キヤン社やアストリヤ鉄工所の機械がモデルであった。精度と互換性を必要とする部品が多いために、限界ゲージ方式と研削盤加工を組合せた精密工作法が用いられた。これは後にバキューム・シーマーや工作機械の製造にも応用され、函館の精密機械製造の嚆矢となった。
 日魯鉄工所は大正10年に堤商会の鉄工部を引継いだものである。漁場より持帰った自家用缶詰機械、舶用機関の修理が主であったが、新台の製造も行った。これには山村、星野など多くの鉄工所が協力した。缶詰機械の内、精密を要するのは3Cクリンチャー、4DSシーマーなどであるが、8年頃からは工船用に17DSバキュームシーマーが加わった。日魯漁業の拡大と共に取扱い量も増した。昭和10年、台場町に鉄筋コンクリート3階建の工場を新築し、輸入工作機械を設備して東北、北海道随一の鉄工所と云われた(写真)。工場長は山田繁造である。
 日本製缶(株)(以下日缶という)が缶詰空缶の供給を始めると、日魯漁業以外の漁業企業家へ缶詰機械を提供する必要が生じた。始めは日缶の依頼で有江鉄工所がその任にあたった。しかし、7年に東洋製缶(株)(以後東缶という)が日缶を系列化すると、8年には幸町に新工場をつくり、9年には缶詰機械製作専門の(株)本間鉄工場(資本金3万円)を新浜町の旧日缶工場内に設立した。社長の本間米作は新潟県中条町出身で、山村鉄工所で年季あけした後、東缶に勤め系列下の林鉄工場の工場長をしていた。本間鉄工場の缶詰機械製造は巻締機が主で、丸缶用122型バキュームシーマー、楕円缶用125型自動シーマーなどである。巻締機以外のスライマー、エキゾーストボックス、レトルトなどは富岡鉄工所が協力工場で製作にあたった。工場主の富岡徳三郎は山形県米沢市の出身、大正8年に来函し、星野工業、日缶を経て昭和2年に独立した。建築・機械の工務所を経営したが、10年には缶詰機械製造の工場を東雲町に新築した。本間、富岡の缶詰機械の供先は北千島の鮭鱒漁業、蟹漁業並びに沿岸のトマトサージン缶詰事業が主であった。しかし、鮭鱒漁業各社が生産調整のため、日魯系の北千島水産(株)に統合されたことや、鰮の不漁によるトマトサージン缶詰事業の衰退で、13年頃から缶詰機械の需要は急速に低下した。経済状勢の変化を見越して、本間鉄工場は12年に資本金を10万円とし、政府補助のある漁船用無注水焼玉機関の製造を始めた。富岡鉄工所は前年から試作していた工作機械の分野に進出を決め、六呎米式精密旋盤の製造を始めた。旋盤は需要旺盛だった東京で販売した。

鋳物業   P483

 銑鉄鋳物のうち、肉薄物のストーブ、建築金物。街路灯、機械部品は村瀬、相原(昭和8年創立)、宝商会(昭和5年創立)、松本(大正10年創立)らが作った。村瀬鉄工所はこの分野の草分けで、創業者村瀬定次郎は岐阜県の出身、水圧物の水道部品や青銅鋳物に熟達していた。大火後は宮前町へ移った。肉厚物は焼型が多く、製品は大型機械部品であるが、有江、星野、共和、宮川(明治44年創立)、吉野(昭和4年創立)らの工場があたった。青銅、黄銅鋳物は、当時、砲金屋といわれた川島、田辺(大正11創立)、竹内(昭和3年創立)、島津(昭和12年創立)、古川可吉(昭和5年創立)らの工場が担当した。製品はポンプの羽根車、スクリュー、軸受メタル、バルブ、時鐘などである。川島砲金工場は、山形市銅町出身で、北海道鉄道管理局付属工場の鋳造職場主任だった川島初太郎が長男の善治と始めたものである。昭和2年、次男の徳次が引継いだが高品質が評判であった。この他、黄銅鋳物で家庭用炉鍵、炉鍋を作る野村、飯田、前、富山などの炉鍵製作所があった。仕上や彫刻の優秀さで、本道のみならず東北地方へも販路を拡げた。

ボイラー、タンク、鉄製構造物製造業   P483−P484

 大正初期にガス溶接機が、昭和初期に電気溶接機が導入された。しかし、鉄製構造物の主流は従来の鋲接手で空気鋲締機が使われていた。この分野の老舗である武田鉄工所は各種ボイラーの他に、鉄骨構造の消防望櫓(第1部、第3部)を2基作った。木下鉄工所は75トンクレーン船を昭和10年に建造した。山口鉄工所は大正の終り頃、砂糖ブームに沸く十勝清水の甜菜糖工場のプラント、設備機械を請負った。また、函館放送局の59メートルアンテナ2基も手掛けた。星野工業(株)は函館市万代町と青森市新町、堤町の三3の望櫓を製作した。なお、大正10年の大火後鉄筋コンクリート造の建物が増え、これに用いる鉄製サッシ、防火用扉など専門の北立建材工業所が操業を始めた。

鍛冶業   P484−P485

 鍛冶業は日本海沿岸の出身者が多く、工場数は多いが小規模のところが多かった。それは技術を持っていれば小さな設備で開業できたからである。木造船用の船釘や漁具、建築金物、家庭用金物などは高橋(旭町)、東(真砂町)、早坂(東川町)など多くの鍛冶工場が製造した。船釘は全長14、5メートルの保津船で192キログラム、建造費の1割を必要とした(保津船は三半船の舳の短い漁船で増毛地方の鰊漁に多く使われた『北海道開拓記念館調査報告』No.18)。漁船はその大小にもよるが、全道で毎年2000隻近く新造していたので船釘の需要は大きかった。漁業用錨や船舶用錨の製造は花野(西川町)、鐙谷(同)、木下藤作(真砂町)、佐藤(西浜町)、東、早坂らであるが、この内、蟹刺網用の錨は、北洋漁業向けに、花野鉄工所だけで毎年500個〜800個作った。船釘や錨は函館の特産品であった。
 農作業用具や山林用道具は野鍛冶の伝統を継ぐ鍛冶(万代町)、草薙、間島、小室(何れも亀田町)、渡辺(旭町)、大出雲、進藤(何れも大野村)らで亀田方面に多かった。くわ、かまの他に農業用具のとうみ、押切器、澱粉ロール器、馬耕用のプラオ、ハロー、カルチベーター、また、なた、まさかりなどの刃物類も作った。鍛冶は慶一郎の代で、能登から来た2代目ということで「の二」と称した。渡辺は秋田市鍛冶町の出身、出雲も同じく秋田の野鍛冶の家柄で当主長吉の時大野村へ移った。弟子が草g洋吉である。農作業用具、山林用具は近郊のみでなく道内に広く販売した。

船大工道具
1.チョンナ 2.まさかり 3.げんのう 4.両つばのみ 5・6.片つばのみ 7・8・9.ダメ切のみ 10・11・12.ホウコンのみ 13.ホウコン槌(ポンコツ)
 刃物鍛冶は薄物と厚物に分れるが、薄物の料理包丁や木匠用刃物、漁業用まきりなどは正直(まさなお)刃物製作所が有名であったが、輪違い印の向井鉄工所も薄物を得意とした。正直は古川富太郎と云い新潟県三条市の出身、刃物鍛冶斉藤包房の高弟である。向井は明治23年の創業で、浅次郎が2代続いだあと昭和5年から境政次郎が引続ぎ、境刃物製作所と称した。厚物ののみや鉋、船大工用のつばのみ、ダメ切のみ、ちょんな、まさかりなどは富山県出身の高田由太郎(明治23年創業)が草分けである。弟子の西谷多佐男(大正15年創業)松居_蔵(昭和2年創業)は函館、小樽の金物問屋を通して裏日本沿岸の多くの造船所に販売したが、これには函館型としての特徴があった。製材用帯鋸、丸鋸は滋賀県出身の木田伝作が連続熱処理のパテント(昭和7年)をとり、開発した機械設備で高品質の製品を量産し、道内、樺太だけでなく東京、大阪方面へも販売を拡げた。家大工鋸、船大工鋸、山鋸は山形、秋田の製鋸技術を引き継いだ大和屋兼右衛門(栄町)、越前屋平右衛門(東雲町)、中屋義春(旭町)、中屋助二(新川町)らが需要に応じた)。

車橇製造業   P485

 馬車、馬橇は道央の石狩型と異なり、函館型として特徴があった。特に馬橇は道央の柴巻橇に対してカナ橇と称し、多くの金具を用いるので、木工技術の他に鍛冶技術が必要であった。飯田(若松町)、掘田(万代町)は草分けである。業者は亀田、湯川地区に多く、永井、前田、出倉、杉本、川岸など約15工場があった。函館型車橇は商圏であった日高、釧路、根室地方でも使われていた(『北海道開拓記念館調査報告書』No.16、No.18)。
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