通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第7節 教育制度の整備と教職員の動向
2 労働運動の変容

教育委員会制度の改正

人口の移動と学校の新設・統合

二部授業の解消

養護学校の義務制の実施

二部授業の解消   P545−P547

 昭和20年代を通じて一進一退を続けた二部授業問題は、高度成長期に入ってようやく解決を見ることになった。『函館市教育委員会三〇年誌』によれば、西部地域の解消の動きが比較的早く、東部・北部方面の解消は遅くなっているようである。西部の谷地頭・青柳小学校では昭和30年には二部授業の解消が実現している。
 一方、中部方面では、西部よりやや遅れて、千代田小学校は昭和33年、千代ケ岱小学校と高盛小学校は昭和34年に二部授業を解消している。
 二部授業の解消が遅れるのはやはり、人口の増加の著しい東部および北部のようである。東部の金堀小学校が昭和33年、湯川小学校が昭和34年に二部授業の解消を実現している。
 もっとも解消の遅れたのが北部方面の学校である。八幡小学校は昭和35年に二部授業を解消し、港小学校は昭和39年になってやっと不正常な授業の解消に成功している。
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