通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第7節 教育制度の整備と教職員の動向
2 労働運動の変容

教育委員会制度の改正

人口の移動と学校の新設・統合

二部授業の解消

養護学校の義務制の実施

人口の移動と学校の新設・統合    P543−P545

 戦後のベビーブームによる児童・生徒の増大に加え、西部地域から北部・東部への人口の移動に伴う校舎の増築、学校の新設の動きを、函館市教育委員会『函館市教育委員会三〇年誌』は、次のように述べている。

 函館市の特殊事情として西部地域から北部方面へ、東部方面へと住居の移転が相変らず継続しており、そのために柏野小学校、駒場小学校、湯川小学校は引きつづき在籍増加の状況が続いた。特に、このころには日吉町、花園町、深堀町への移動が著しく、昭和三十九年四月にはこれらの児童を収容するために、日吉町三十五番地の二に函館市立日吉が丘小学校(十三学級・特殊学級一学級編制)を新設、湯川小学校に三教室の分教室を置いて開校した。


戸倉中が校(昭和50年)
 このように、人口の移動に伴う学校の増築、新築の動きをまとめているが、高度成長期の函館の学校教育を巡る特徴的な事象といえる。この動きは、年度を経るにつれていよいよ加速し、日吉が丘小学校の場合には、その後も学級増がつづき、昭和45年度には、45学級にまで増加している。東部方面の児童の増加は、昭和44年度の柏野小学校、駒場小学校の増築をもたらしている。さらに、昭和40年代に、函館市がおこなった上湯川地域における住宅団地の開発は、湯川小学校の在籍児童の増加をもたらし、対応を迫られることとなっ た。
 その結果、上湯川台地に校地が決定され、昭和45年4月に上湯川小学校が開校をみた。一方、日吉町、花園町方面の人口増加は、さらに学校の新設を要することとなり、昭和46年には深堀小学校の開校をみている。また、上湯川地域の発展に伴う上湯川小学校の児童の増加は、湯川中学校の生徒増をもたらし、湯川中学校の過密解消が行政上の課題となっていった。こうして、昭和48年4月には、戸倉町235番地に、戸倉中学校が開校することとなった。
 人口の東部・北部方面への移動と、それに伴う学校の新設の動きと歩調を合わせるように進められたのが、人口の減少による西部方面の学校統合の動きである。西部方面に居住する市民の東部あるいは北部方面への移動の傾向は、東部および北部方面の学校に教室不足という形で現れてくるとともに、西部方面の学校には教室の余裕となって現れてきた。そこで西部方面の小中学校の校舎の老朽化の進行とともに「統廃合が必要」との声が次第に大きくなりつつあった(前掲『函館市教育委員会三〇年誌』)。

西小学校校舎(昭和46年頃、西小学校蔵)
 西部地区では、昭和30年には幸小学校・常盤小学校とも各在籍は800名をこえていたが、昭和39年には幸小学校450名、常盤小学校516名となっている。
 こういった事情に対応するため、市の学校教育審議会では、昭和39年度に答申を出し、小学校および中学校の統合を提案している。それによると、小学校では、幸・常盤の両校を1校に統合新築し、中学校については、船見・愛宕の両中学校を統合する、というものである。結局、幸・常盤の両校は、昭和47年に、旧常盤公園に新設された西小学校に統合されることとなった。また、船見・愛宕中学校は、昭和52年に統合され、西中学校となった。新設された場所は西小学校の隣である。以上の学校の変遷については図2−37を参照されたい。
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