通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 オイルショックと物価値上げ反対運動 |
オイルショックと物価値上げ反対運動 P540−P541 高度経済成長の過程のなかで国民生活の変化がみられ、物質的生活の豊かさがみられるようになった。しかし、その一方で公共料金などの値上げ、公害問題などが発生し、新しい社会矛盾が現れるようになった。社会・福祉・医療の充実が国民の強い要求として噴出した。なかでも昭和48(1973)年10月に起きた「オイルショック」を契機に灯油価格が上昇し、併せて物価値上げの引き金となり、いわゆる「狂乱物価」が引き起こされた(第7編コラム52参照)。この時に、モノがなくなるということから消費者の買いだめパニックが起きたが、この背景には「千載一遇のチャンス」と考えた石油元売会社の便乗値上げがあった(国民生活センター編『戦後消費者運動史[資料編]』)。 たとえば、この時期家庭用燃料の主役を占めていたプロパンガスの小売値が函館では10キロボンベで1200円であったが、プロパンガス燃料の原料であるナフサの値上がりから、1本当たり100円以上の値上がりとなり、家計を圧迫するようになった(昭和48年10月26日付け「道新」)。 プロパンガスと並んで灯油価格の設定に市民の関心が高まった。同時期、函館・亀田灯油値上げ反対市民会議(両市の消費者・労働組合・婦人組織など21団体)と函館地方石油業協同組合との懇談会が持たれた。話し合いの焦点は、「一かん、四百五十円の指導価格が適正であるかどうか」に絞られた。消費者側は「卸しからの小売店への仕切り値は不当に高い」「小売店の荒利益を見積もっても四百五十円は高すぎる」と激しく詰め寄ったが、業者側は「諸経費アップが激しい」と主張し、物別れに終わった(昭和48年11月10日付け「道新」)。 市民会議は事態の打開のために同年11月26日矢野市長とこの問題で初めての交渉をおこない、「市独自の指導価格の明示と行政指導」に乗り出すことを要求した。同市長も価格に幅(1缶当たり、350円から400円)を持たせて、行政指導をすることを約束した。灯油とプロパンガス両価格の値下げ運動は翌昭和49年も市民の関心は高く、函館市灯油・プロパンガス値上げ反対市民会議(村田喜一議長)は、広範な諸団体(函館消費者協会、函館地評、函労会議、亀田消費者協会、道南同盟、日本婦人会議、新日本婦人会議、道南母親の集い、母親連絡会、婦人団体連絡会、生活と健康を守る会、亀田地区労など)を結束させ、同年8月24日は街頭宣伝をするほか、職場および戸別訪問をするなどして多数の請願署名を集めた(『函館地評運動史』)。 |
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