通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 函館ドックにおける労働争議 |
函館ドックにおける労働争議 P534−P536 造船業界は朝鮮戦争時、一時的な「特需景気」に見舞われたが、不況の波は幾度も押しよせてきた。とくに、大型船の造船工事が入るたびに臨時工の雇用と工事終了後の解雇が繰り返され、臨時工の雇用不安が続いた。函館ドック株式会社(昭和26年8月10日、函館船渠株式会社から改称、以下函館ドック)の労働者の要求は「計画造船」による仕事の確保だった。函館ドックは造船受注の減少から、「希望退職」という名の「解雇」が恒常的な問題となっていた。労働組合(以下労組・組合)では中央組織の全造船(全日本造船労働組合)の「造船労働者の産業再建プラン」方針を受け、昭和28年8月7日、函館ドック内のグランドにおいて「造船産業危機突破函館大会」を開催した。こうした不況の時期を経た後、ようやく昭和30年代から次第に造船ブームとなったこともあり(第2章第3節参照)、臨時工の数も約300名をこえ、同31年9月19日、函館ドック臨時工組合が組織された(臨時工たちは昭和26年6月に、最初の「臨時工組合」を結成したが、この時はわずか2か月で解散している)。しかし、翌32年7月、会社側は臨時工78名の雇用再契約打ち切りを通告してきたため、臨時工組合は本工労組の支援を要請し、8月2日から5日間、共にストライキを闘った。その結果、会社側は「交渉中解雇予定の八名は日雇いとして契約する」という条件を提示し、8月8日に妥結をみた。この争議は造船関係の労働組合としては「臨時工の斗争に本工が支援ストで援護した」初めてのケースとして評価されている。 戦後の函館ドックの労働争議で忘れることのできないのは、昭和34年の争議でこれは安保改定反対運動につながる前段の闘争として位置づけられる。 この年9月、会社側は臨時工266名、嘱託40名の解雇を通告してきた。会社側の言い分は秋以後、工事受注が枯渇するということであった。多くの臨時工の解雇をめぐって、労使の主張は平行線をたどり、11月10日に団体交渉(以下、団交))は決裂した。組合は圧倒的多数でスト権を確立し、同月12日からストライキに突入した。労組側は入渠中のイタリア貨物船(アスプロ・モンテ号、7154トン)の出渠を拒否する戦術をとった。労使の対立は日増しに高まり、出渠できなくなった同船長はイタリア大使館に善処を申し入れたほか、渡島支庁長・函館市長が労使交渉の仲介役を果たすなどの動きも作られた。それでも交渉の進展がみられなかったため、会社側は11月20日、函館地方裁判所に「出渠妨害排除」の仮処分申請をおこなった結果、翌21日、同地裁は会社側の主張を認めた。22日、執行吏の一団が立入禁止区域の設定作業をおこなおうとしたが、800名のピケ隊に阻止され、続行できなかった。そのため、翌23日、地裁は警官隊の出動を要請し、800名の警官が動員され、ようやくアスプロ・モンテ号は出渠することができたが、警官隊とピケ側が激しくもみ合い、3名の負傷者と4名の逮捕者を出した。そのこともあって、労組側は残業拒否、ストを続行した。12月2日の団交において、会社側は(1)解雇は白紙撤回、(2)希望退職者を募る、(3)退職金は1年勤続に付き1か月分支給、(4)強行就労の賃金は支給、(5)争議中の賃金はカットしないことを提示した。労組側は会社の譲歩案を、全員大会(函館分会、臨時工分会、室蘭分会)において、賛成1055、反対137で妥結することとし、争議は収束した。 この争議は前年の昭和33年、145日間の長期にわたって闘われた苫小牧の王子争議につぐ大きな争議であった。このほか、函館では、この年、「小型王子争議」といわれた富岡鉄工所争議が起きた。組合の結成にともなう労働条件改善要求が契機となり、組合三役の解雇と介入に対して労働組合が反発し、8月19日から74日間の長期争議となった。このほかに、国鉄労働組合では、函館地方本部の「不乗便闘争」が昭和34年から35年にかけて展開された(青函船舶鉄道管理局『青函連絡船史』)。 |
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