通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 不況と失業者 |
不況と失対者運動 P536−P537 昭和30年以後の高度経済成長は必ずしもすべての人びとに恩恵をもたらしたわけではなかった。高度経済成長をもたらしたしそのメカニズムは寡占的大資本による膨大な設備投資と大規模な重化学工業の創出によるものであった。そのため農村と都市の過剰労働力を低賃金労働者として活用することが必要であり、とくに東北・北海道から関東方面に出稼ぎに出る者が増えていった。一方、函館地域の労働事情は、産業構造の特徴から全国的な動向とやや違った動きをみせている。この地域は戦後間もなくから日雇労働者の多い地域であったが、この時期、その数は増加を続けている。 昭和34年夏、函館公共職業安定所(以下、職安)に登録されている日雇労務者は4800人を数え、仕事の大半は道路工事や下水道工事の失業対策事業が中心であった。同職安がこの年の5月におこなった調査によれば、男性日雇労働者の年齢別割合は50歳代が29パーセントで一番多く、40代、30代、60歳代と続いている。前職は港湾荷役業、続いて漁業、建設業がおもなものであった。このような日雇労務者が増加した背景には、北洋漁業の縮小やイワシ漁の不振、零細港湾関係企業の倒産、ソ連・中国との貿易取り引きの縮小などにより、港湾荷役の仕事が奪われたこと、さらに漁業従事者から日雇労務者への転職者も多数みられたためである。失業者5000人弱という数はこの時期、北海道でもっとも多かった(昭和34年8月1日付け「道新」)。 出稼ぎに出た季節労務者も多く、職安の調査によると昭和38年10月末には2万3600人を数え、1年前の同時期と比較すると1500人増加していた。業種別では建設関係の1万7400人、続いて水産加工2530人、林業・農業の季節労務者も顕著になった。この背景には、沿岸漁業の不振に零細漁民が見切りをつけ、一家総出の出稼ぎがおこなわれるようになったことがあげられる(昭和38年11月28日付け「道新」)。 |
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