通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 都市構造の形成と社会的背景 |
都市構造の形成と社会的背景 P497−P498 中世にすでに港町として発展していた函館の地は、江戸時代の後半には日本列島内における有数の港としての地位を築いていた。そして上方を起点とする北前船による日本海航路の松前三湊(松前・箱館・江差)のひとつとして栄えていたこの港が、幕末の開港にともなって近代国家日本における国際的な港湾都市として発展を遂げたことは、すでにこの『函館市史』(通説編第2・3巻)においても論じられている。とくに昭和初期(昭和10年頃)まで、北海道においてもっとも有力な都市であり、全国的にみても主要都市としての地位を保っていたことは、現在の都市函館の基礎を考える場合に重要である。一方、そのような函館は、幕末の開港で外国人居留地となって以来、ロシアをはじめとする外国文化の影響を強く受け、公会堂、領事館、学校などの公共建築や教会堂建築、そして一般の住宅などは独特のエキゾチックな雰囲気を伝えてきた。都市としての函館と、その住文化を取り上げようとする場合、日本列島内のほかの都市にはみられない独自の豊かな建築文化は現在の函館、さらにはこれからの函館の将来を見通す上でも大きな意味を持つはずである。 このような都市空間の前提をなす函館市域は、周辺部に広がる郊外である農村・漁村部をとりあえず別に考えると、『函館市史』都市・住文化編で論じられているように、函館山の麓の「西部地区」、函館駅周辺一帯の「中央部地区」、そしてその五稜郭近辺の市電(路面電車)通り沿いに広がる「東部地区」に大きく分けることができる。幕末から明治の洋風建築が建ち並ぶ西部地区、大正・昭和の近代建築による中央部地区、郊外住宅地から発展した東部地区というように、現在の都市景観に都市としての変遷ないし発展の過程が刻み込まれていることが都市函館のほかの都市には見られない特徴と言ってよいだろう。 このような地区による相違を、都市の繁栄を支えていた交通ないし流通の基礎となるエネルギー源に着目して、「人力」による西部地区、「石炭」による中央部地区、「石油」による東部地区と明解に述べた和泉雄三の見解(函館市史編集会議における発言)はまさに卓見である。すなわち、帆船と艀という、いわば自然と人馬の力のみに依存していた近世以来の港を中心として発展した西部地区、汽車による鉄道と汽船による連絡船という石炭による蒸気機関に基礎をおいていた函館駅周辺に賑わった中央部地区、市電という電気エネルギーの時代を経て自動車によるモータリゼーション、すなわち石油エネルギーに全面的に依存して郊外に拡大した東部地区という区分は、大きく近世から近代にかけての歴史的な転換のなかでの都市構造の変遷の本質を見事に表現していることになる。またこのように区分できるということは函館という都市が、北海道・東北地域や日本列島の範囲だけではなく、地球規模での人間社会の変化のなかで考えなくてはならない存在であることをも端的に示していることになるだろう。 |
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