通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第5節 都市構造と住文化の変容
1 都市函館の現在

都市構造の形成と社会的背景

戦後復興期と高度経済成長期の函館

聞き取りによる高度経済成長の都市函館

聞き取りによる高度経済成長期の都市函館   P499−P501

 函館の都市住民の生活を明らかにする方法として、ここでは「聞き取り」による資料を用いる。『函館市史』都市・住文化編のためにすでにおこなっていた個別の住宅に関する聞き取り、そして、本巻のためにおこなったおもに住生活に関する聞き取り調査である。

昭和40年代の函館駅前(俵谷次男撮影)
 たとえば、今まで述べた戦後復興期と高度経済成長期の都市的な発展については函館の住民はどのように受け止めていたのか。まず、昭和40(1965)年以降の高度経済成長期の函館は、青函連絡船の拠点であった函館駅を中心に、経済的な繁栄を遂げ、函館は大いに賑わっていたと市民の多くは考えていることが聞き取りで確認できた。現在の函館駅周辺の再開発によって、駅前広場や函館朝市に象徴的に示されるかつての繁栄の名残が次第に失われつつある現在、その賑わいを支えていたものが何であったのか、都市史の立場からみてどのような意味を持っていたのかを確認しておくことは必要であろう。とくに、本州と北海道を結ぶ大動脈であった青函連絡船の拠点であったことにより、都市函館の影響の及ぶ範囲が本州方面まで含むかなり広い地域に広がっていたはずであり、この時期の都市函館の日本列島における位置は重要な問題であろう。
 また一方、函館で実際に商売・営業をおこなっていた人びとに対しての聞き取りによれば、昭和39年の東京オリンピックの頃から、昭和40年代後半までは、商売が繁盛していたが、昭和48年の第1次石油ショックの時期を経て以後、現在に至るまで長期的に下り坂であるという話が多かった。これは大きくみれば日本列島全体に通じる動きの一環には違いないが、函館の場合、小売業関係の落ち込みが著しいようにみえる。全国的にみてこの時期にスーパーマーケットに代表される大型店舗の進出があり、人びとの買い物行動が変わったことはあるだろう。ただ、函館の場合、都市商業の中心が西部地区から中央部地区、そして東部地区と移動して都市的な繁栄を維持してきたことが、かえって小売店舗の基盤の弱体化に影響したのかもしれない。いずれにしても、函館の長期的な低落傾向は全国的な経済の停滞によるのであるが、それだけではない函館固有の要因も探っておく必要があるだろう。やはりこの間の変化は、都市函館の江戸時代以来の社会構造が、高度経済成長によって大きく変貌する過程の一端とみなければならない。
 この間、これも全国的な観光ブームに乗った部分はあるが、観光客の増加によって西部地区を中心にした新しい函館への試みが盛んにおこなわれ、かなりの程度成功を収めているようにみえる。ただしかし、聞き取りによればこの動きは多くの函館市民の生活とうまく結びつくような形にはなっていない。このことは今後の大きな課題である。
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