通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 モータリゼーション時代の到来 |
モータリゼーション時代の到来 P490−P493
以後、運送人員は急上昇し、44年にはピークの2450万人に達する。市電はこの年4027万8000人だから、市電の運送人員の61パーセントを占める。それから下降するが、55年でも1868万人余で、市電ほど激しく落ち込んでいない。この年の運送人員は、市電を上回っている。 市電と市バスの2つは公共交通手段であり、両者を合わせると、55年でも、合わせて3509万7000万人で、29年の市電乗車人員にほぼ等しい。都市交通手段として、両者は大きな役割を演じていたといえるだろう。 函館バスは、昭和19(1944)年6月、「道南自動車」、「下海岸自動車」、「渡島交運」、「大檜乗合」、「マツマヘ自動車」などの渡島・檜山支庁管内の乗合バス会社14社の戦時統合でできた会社で、資本金65万円、所有車両54両、従業員114名で出発した。戦後の経営難もあったが、32年に東急電鉄の系列下に入って経営の建て直しを図った(函館バス『二〇年のあゆみ』)。もともと、函館市内の都市交通には入らず、郡部のバスであったが、函館市が41年に銭亀沢村と、48年には亀田市と合併したため、両地域を走っていた函館バスは自動的に函館市内の都市交通手段となった。 年間の運送人員実績は、24年には148万人余であったのが、以後急速に伸び、37年1089万人余と、1000万人台に達する。ピークは55年の1920万人で、市バスと肩を並べる最大のバス会社となり、函館の都市交通手段の一画を担っている。 |
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