通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 商店街の消長と小売業の変貌 |
商店街の消長と小売業の変貌 P428−P431 統制の解除と経済の復興にともない、昭和30年代の小売業界は、資本力と堅実な信用力をもつ百貨店が、強固な地盤をつくり、売上高を増加させていき、これにたいして中小商業者が商店街の振興をはかって対抗し、戦前の私設市場や戦後の自由市場「闇市」の系譜をひく「小売市場」が生鮮食料品などの供給を担った。
十字街地区では、昭和34年に丸井今井デパートに函館で初めてのエスカレーターが登場し、十字街商店街に新しいアーケードが完成するなど一見華やかではあったが、翌35年には、「十字街商店街」に、このままでは場末街になるとの診断書が出されるなどその衰退傾向が明らかになった(前掲『都市診断 北海道篇』)。30年代後半には西部地区の銀行などが駅前方面へ移転し、一方で、東部方面の宅地造成がすすみ、花園、日吉地区の人口が急増し、亀田町への人口流出も著しく、市中心部の人口が減少していき、市民の購売行動も変化していった。流通革命の先駆けともいうべきスーパーマーケットが進出し、中小の一般商店への影響が心配されはじめるのも、この頃である。 昭和40年代になると、43年に寄り合いの和光デパートが駅前に新築開店し、棒二森屋、彩華、和光の3デパートが駅前・大門地区で競いあうことになった。一方、東部地区の人口急増を背景に、副都心を標榜する五稜郭地区では、商店の新築や改築があいつぎ、商店街として急成長し、44年には十字街にあった丸井今井デパートも本町に移転するなど、商店街としての地盤をゆるぎないものとしていった。これにたいして、駅前・大門地区では、商店街の若返りをはかる再開発にとりくんだ。また、西部地区の斜陽化防止のために、丸井今井デパート跡を市の分庁舎として残した。 さらに、40年代後半には人口が急増する亀田市(昭和46年に市制施行)の赤川通地区が、48年の函館市との合併や「産業道路」の整備もあって、大門、五稜郭地区につぐ新興商店街として台頭した。このように30年代から40年代にかけて、地域的な人口の移動やモータリゼーションの発達とあいまって、商店街も変遷してきたが、50年代に入ると、本州大手のデパートや大型量販店など外来資本が参入し、函館の小売業は激動期を迎える(第7編コラム57参照)。 表2−17は、昭和30年代から50年代にかけての小売業の歩みをみたものである。総小売店数では、昭和29年2814店から57年には4620店と1806店増え、年平均64.5店の増加。総従業者数では、29年の7466人から51年には2万129人と1万2663人増え、年平均453.3人の増加。総販売額では33年の139億円から57年には3253億円と3114億円増え、年平均129.8億円の増加である。一見順調に拡大してきたようであるが、停滞や減少もみられ、その歩みは複雑とおもわれる。 「各種商品」を扱う商店は、統計の基準にゆれがみられるが、30年代はデパート、50年代はそれに量販店をふくむ 大型店とみて間違いないであろう。昭和33年には、3店で、従業者は全体の5.5パーセントにあたる569人、販売額にいたっては、実に全体の13.1パーセントにあたる約18億円の実績をあげている。当時のデパートの実力を示すものであろう。また、57年は、8店で、従業者数は全体の9.5パーセントの1900人、販売額は529億円で、全体の16.3パーセントを占めるにいたっている。 昭和33年の「織物・衣類・身の廻り品」を扱う店は、全体の12.7パーセントの430店、1店あたりの従業員5.0人、販売額は全体の22.3パーセントにあたる31億円を占めている。57年では全体13.6パーセントの630店、1店あたりの従業員4.4人、販売額は全体の11.3パーセントにあたる367億円にすぎない。店舗数の比率そのものはかわらないが、1店あたりの従業員数、販売額の比率の低下は、大型店との競合の結果であろう。 昭和33年の「飲食料品」店は、全体の57.7パーセントの1958店、1店あたり従業者2.5人、販売額約59億円は全体の42.4パーセントを占めていた。57年には全体の47.4パーセントにあたる2190店、1店あたりの従業者3.3人、販売額約1012億円は全体の31.1パーセントである。店舗数の比率の減少や1店あたりの従業者数の増加は、零細業者が中心だったこの業界にも、変化が生じていることを反映しているのであろう。
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