デジタル版 通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 高度経済成長下の函館商業 |
高度経済成長下の函館商業 P424−P427
この間の北海道経済をみると、日本経済に占める地位を次第に低下させていき、産業構成からみると、第1次産業の減少、第2次産業の停滞、第3次産業の肥大化と都市への集中が顕著にみられた。函館商業の膨張も、こうした流れに沿うものであった。
その内訳をみたのが、表2−16である。札幌市以下8市への商業機能の集中が顕著である。昭和45年には、全道の総商店数の50.1パーセント、総従業者数の61.6パーセント、総販売額の75.9パーセントを8市で占めている。 とくに札幌は、総商店数の19.8パーセント、総従業者数の27.2パーセントを占め、総販売額では41.6パーセントに達し、他にぬきんでた存在になった。戦前に道内の商圏を二分した小樽と函館のうち、小樽は商業機能、なかでも卸売機能を隣接する札幌に吸収されていき、昭和33年に全道の13.5パーセントを占めていた総販売額は、昭和45年には実に3.9パーセントに落ち込んだ。函館の場合は、総商店数が昭和31年の7.7パーセントから45年の6.7パーセント、総従業者数が31年の7.9パーセントから6.9パーセント、総販売額が6.5パーセントから5.9パーセントと、低落傾向にあった。おそらくは、地域の中核都市として、後背地である道南地域の経済の動向を反映するものであろう。また、支店、出店経済の街といわれた札幌への商業機能の極度の集中化傾向も、さまざまな格差や歪みをもたらしたとされる日本経済の高度成長と無関係ではない。 この時期の函館の商業について、北海道都市学会監修の『都市診断 北海道篇』(北海道新聞社編)は、「函館は小樽とよく比べられる。卸し売りにおいて共通点は多い。三十五年と三十七年を比較して小樽の販売高は横ばいながら全道の比重は四パーセントも落ち、旭川に追い越された。これに対し函館の卸し売りは二十億円も増加し、全道比もわずかではあるが上昇している」とし、函館の商業は底力をもっているのだから「根強い商業に活路を」見出すべきだとして、「函館の卸し売り商人はどこへ商品をさばいているのだろうか。一例として衣料品問屋の場合をみると、仕入れは大阪が一番多く、半ば近い。あとは東京と名古屋である。卸し先は函館市内よりも渡島・檜山が多く、日高・胆振の商圏もまだ残っている。これは函館商人の底力もあろうが、道南が函館の後背地として健在であることを示している。つまりやせたりといえども一城の主なのだ。函館にデパートは3つある。しにせぞろいの商店街には新興地のにぎわいはないが、デパート商法は花やかだ。品目別の売り上げ高でやはり伸びの著しいのは衣料品だが、そのほかも上昇カーブを描いている。札幌は全道売り上げの半ばを占めるが、次は函館である。小樽・旭川がこれに続く。これに象徴されるように小売りの将来も期待できよう。」と述べていた。 |
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