通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
3 都市域の拡大と新たな地域課題

人口移動の実態と中心地の分散化

人口移動がもたらした交通問題

亀田市合併に伴う生活環境問題

都市形成における″文化的ずれ″

都市経営の主体性

都市形成における″文化的ずれ″   P366−P368

 昭和41年に発刊された『都市診断 北海道篇』は、函館の性格を「止まっている時計」と表現し、「古い伝統に落ち着きはらっているまちには、東北の古さもからんで、東京あたりではとうになくなったような風情が残り、意外と明治・大正は近くにある。言うなればカルチュラル・ラグ(文化的遅れ、ずれ)がみられる」と指摘している。
 当時の函館は、北海道の玄関口という位置を喪失し、1通過都市となる危険性を内包しながら、背後の経済圏の縮小と港湾機能の変化と相重なって孤立化を招くという状況であった。つまり、函館発展の原動力になった函館港を通した鉄道の結節点の役割が失われ、航空機利用が増えて青函連絡船の利用者が減った。さらに、造船業など基幹産業が斜陽化したことなどがその背景にあった。
 その起死回生策として打ち出されたのが昭和45年の矢不来計画だった。この計画は、当初函館港の将来のビジョンとして函館商工会議所が策定した函館湾工業地帯造成計画が基礎にあり、その後の『函館圏総合開発基本計画書』のなかで提案されることになった。だが、地元の上磯町ではこの計画が実施されれば矢不来地区の前浜漁業が完全に漁場を失うことや、公害を心配した住民などの反対が激しかった。函館圏の地域振興と地場産業の保全で揺れた矢不来計画は、昭和48年2月に上磯町長が計画中止の考えを明らかにし、その後、函館市長も計画の断念を正式に表明することによって挫折した。
 広域的臨海工業都市は実現しなかったが、次に動いたのが函館市と亀田市の合併であり広域化行政を実現し、道南の中核的都市を形成する意味合いがあった。この合併の実現は、「行政の境界にとらわれず、運命を共にする函館圏の発展を期す」というねらいがあった。しかしながら、合併の問題の議論は旧亀田市域の振興策に傾き、地域問題にすり替えられてしまったという見方もあった(昭和58年11月16日付け「道新」)。前述のとおり、合併以降函館市の施策は都市基盤の整備に多くの予算を投下していることからも理解できよう。

新旧の函館市庁舎
 しかし、この合併によって新生函館市の都市計画を誕生したわけでもなかった。さらにトロイカ経済界と呼ばれるように、合併による商工会(議所)の一本化は実施されなかった。このことは、昭和55年の大型小売店の長崎屋とイトーヨーカ堂が進出する際に市商店街振興組合連合会はじめ、函館商工会議所などの経済団体は「大型店進出は地元の中小企業に甚大な影響を与える」と猛反対した。しかし、地元の美原商店振興組合や亀田商工会は「地域の商工振興はもとより、消費者ニーズに沿うもの」と賛成に回った(第7編コラム57参照)。「これでは函館全体のマチづくりに支障をきたす」との声があがった(昭和63年10月23日付け「道新」)。
 亀田市との合併2年後の昭和50年12月の議会において、函館市の新庁舎の位置を現在地に建設する表明があった。当時の函館市は、「市役所はその都市の機能の中枢に造るべきで、交通のネットワークの中心にあり、人と物資が交流する中心地である現在地が最適である」という現状認識であった(昭和50年11月11日付け「朝日」)。しかも、将来の広域な函館市の都市空間を展望するような議論はされずに庁舎の位置が決定された。
 亀田市との合併を当時の平野鶴男企画部長は「人口移動は同じコップのなかでのあらしだった。収入増が伴わないのに対策に追われ、非常に苦しかった」と振り返っている(昭和58年11月16日付け「道新」)。また、合併の大義名分が期待通りに実現しなかったのは、旧亀田地区への人口移動が予想以上に激しく進行したからだ、という説がある。そして「結果論だが、合併時期が遅すぎた。もう五年、十年早かったら……」という声もでていた(昭和58年12月2日「道新」)。
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