通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
3 都市域の拡大と新たな地域課題

人口移動の実態と中心地の分散化

人口移動がもたらした交通問題

亀田市合併に伴う生活環境問題

都市形成における″文化的ずれ″

都市経営の主体性

人口移動がもたらした交通問題   P361−P363

 昭和40年から50年までの人口推移をみる と、西部と中央部の人口は約2万人減少し、亀田地区では5万人も急増している。つまり、市電、市バスの恩恵に浴さない地区へ人口が移動し、通勤などの足を自分で確保せざるを得ないこともあって、自家用車へと流れた。この事情は、昭和50年の自家用車の利用者が41年に比べ5.5倍にもなったことに端的に表れている(函館市交通局の調査による)。
 この結果、市電の利用客数は昭和39年をピークに、毎年5パーセントから10パーセントずつ減少し、50年度にはピーク時のちょうど半分に激減している。市バスも昭和41年度をピークに緩やかではあるが、これまた下降線をたどっている(第2章第4節参照、昭和51年9月8日付け「道新」)。
 この動きを財政面からみれば、函館市の市営交通事業は、マイカーの普及で昭和40年前半から利用客の減少が続き、47年度末には29億9100万円の累積欠損金を計上した(『函館市史』統計史料編)。このため、市交通局は48年度から、国の特別措置「地方公営交通事業の健全化の促進に関する法律」に基づく再建団体の指定を受け、累積欠損金の棚上げと市の一般会計からの援助を得て、62年度までの15か年の再建計画を進めてきた。
 しかし、その後もマイカーの急速な普及、人口の東部、北部地区など外周部への拡散、民営バスとの競合などで、市民の市電、市バス離れが続き、昭和61年度の市電の利用客は1日平均約2万7800人と、昭和41年度ピーク時の22.4パーセントにしか過ぎなかった。同じく市バスの利用客も約3万4100人と48.5パーセントに減少した。加えて経営の赤字体質も一向に改まらず、61年度に6億9000万円の実質赤字を出すなど毎年6億から7億の赤字を出し、一般会計からの補助金で穴埋めしている状態で、市財政悪化の一因となっている(『昭和六十一年度函館市公営企業会計決算書』)。そのうえ、国の特別措置法による再建計画が昭和62年度で終了することから、自主再建か民営化あるいは第3セクター方式への転換のいずれかの道の選択を迫られていた。
 この時期に木戸浦隆一市長から諮問を受けた函館市交通事業経営審議会は、今後の市営交通事業のあり方について「市民の重要な交通手段としての役割を今なお担っており、内部の合理化、路線の見直しなどによって公営による存続の可能な余地が残されている」として、当面は公営で維持存続させるべきだとし、目標年次の平成4年度に再建の達成が困難な場合、改めて第3セクター方式、民営化をはかって対策を検討すべきだとした(昭和62年10月18日付け「北タイ」)。
 このように函館市交通事業は、人の移動と車社会の到来のなかで、利用客の減少と赤字の増大化と市民の足としての公共性との葛藤の歴史のなかにあった(図2−15参照)。ふりかえれば、昭和45年9月の市交通事業経営審議会の答申は「将来、交通事業は電車を廃止し、バスに一元化する」というものであった。その理由は、「電車は路線が固定的なため市民の変動する交通需要に応ずることができず、乗客は減少の一途をたどる。バスはこれらの欠点がなく市民の交通サービスを向上できる」との判断であった(昭和45年9月13日付け「道新」)。この再建案を参考に市交通事業対策委員会は、「電車路線は湯川・函館ドック間の一本を残してあとは廃止」の内容を昭和47年8月31日に矢野市長に最終答申案として提出した(昭和47年9月2日付け「道新」)。しかし、この再建案は労働組合や市民による「市電こそわれわれ庶民の足」と強く反対にあい実現をみなかった(昭和47年9月20日付け「道新」)。
 その後こうした市民の意見もあって、基本的には電車の存続を維持してきた。しかしながら、実際の経営形態は市電のガス会社前・五稜郭駅前線が昭和53年度に廃止され、宮前線と東雲線が平成3年度に廃止されており、ほとんど昭和47年の答申の内容に帰結している。なお、平成13年度から市営バス運行の一部が民間の函館バスに移管され、同15年度には完全移管となる予定である。
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