通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 引揚者をめぐって |
引揚者をめぐって P221−P224 函館が樺太からの引揚者の窓口になったことは、前節に記されているが、ここでは引揚者のその後について述べよう。どこにも帰るあてのない無縁故者をどうするかが、当面の大きな問題であった。そこで彼らを対象とした就職相談所が開設され、あっせんをおこなったが、取扱期間中(昭和23年6月から昭和24年12月)の相談件数3400件余りのうち就職を実現できたのは448名だった。住宅つきの職場を求める引揚者の希望と、求人企業などの条件はなかなか合わなかったのだという。求人の比較的多かった炭鉱関係に236名の就職があったが、年齢制限があって思うように就職実績をあげられず、この程度にとどまった。あとは、林業、漁業関係がやや目立った程度で、「遺憾ながら就職成功率は極めて低かった」という状況だった(『函館引揚援護局史』)。
銀行の小使室に大人数の世帯が置いてもらっているなど、困難な住宅事情の人びとが800世帯はいるといわれ、就職はマーケット、自由市場(闇市)などでてっとり早い仕事によるほかはなく、この形では「古くからの一般商店との摩擦もできる」と心配されていた。船会社を設立して北海道庁からの注文を受けハシケを2艘も造ったというような活発な経済活動をおこなっている引揚者のグループもあるのだが、着業資金の融資を受けるのは困難だった。「政府の援護対策は年々退歩」の様子で更生資金などの融資枠は細くなり、昭和24年5月現在、受付停止となっている有様だった。これでは「外地で芽生えた別な思想が爆発」するのではないか、などとされていた(昭和24年5月1日付け「道新」)。「別な思想」とはソ連在留中に教育されたという「共産主義思想」を指していた。昭和24年のシベリアからの引揚者の間にとくに目立ったとされ、函館でもナホトカから舞鶴へ着いた引揚者のグループ190名が連絡船で着くと「青共隊員のうち振る赤旗とインターナショナルの歌声」で歓迎を受ける様子が出迎えの「肉親者を圧倒」する情景がみられた。なかには、「今日帰って来た一九〇名は全員京都で共産党に入党した」のだと語る人もいれば、「祖国を憧れる気持の中に共産主義教育を入れるだけの余裕は全くなかった」と語る人もいた(昭和24年7月3日付け「道新」)。 この時期のシベリアからの引揚者については「赤化工作の跡」がうかがわれ、各地でつるし上げ、歓迎拒否の行動などがみられた。「函館、札幌など主要到着駅で出迎えた一部分子と呼応、座り込んで気勢を挙げ」、札幌ではさらに、折から開催中の北海道議会へも押し掛けて、居眠り議員について議長を責め、また「引揚者に住宅、職業を保証せよ」と詰め寄るという動きまで示していた(昭和26年版『北海道年鑑』)。「樺太から引き揚げた一般邦人にはこのような赤化の跡はみられなかった」とされ(同前)、樺太からの人びとの多かった函館では、「赤化」による混乱も目立たなかったようであるが、「赤化」うんぬんは、やはり就職事情に影響した。引揚船が着く時期には、「炭山方面の大口求人筋」が労務者確保のために函館へ出て求人活動をやっているのだが、その意向が「闘争第一主義の労働者は不要である」という点で特徴的となってきて、ひところの経験第一主義から「思想と健康に求人選考の条件が移ってきた」というのであった(昭和24年7月4日付け「道新」)。引揚者たちは「全員を共産主義者と見ず就職などにもっと積極的態度で臨んでもらいたい」と訴えなければならなかった(昭和24年7月31日付け「道新」)。 第5次引揚船(昭和24年6月から7月月着船)の4000余名のなかには、援護寮に何か月もの間滞在しなければならない人びとが多く存在した。無縁故者の80パーセント以上はほとんど専業農家の人で、炭鉱などへの就職へも向かず、希望も少なかった。入植地の準備をして、入植地に直行してもらうという方針で作業が進められたので、その間、3か月ほども滞在しなければならなかったのである。10月25日に最後のグループが出発するまでの間、授産所を設け、冷凍魚の木箱作りで若干の収入が得られるようにしたり、婦人修養講座の開催など、長期滞在者への対策が取られていた。子どもたちのためには、小学校も開設された。千代ヶ岱援護寮小学校の名称で、寮のなかに4教室、生徒数183名、校長ほか7人の教員を配置して8月から10月の間開校していた。盛大な運動会を催すなど、短期間ながら学校らしい良好な成績をあげたという(『函館引揚援護局史』)。 昭和21年から24年の引揚者援護のための動きは、援護局の活動のほか、さまざまな取り組みがあった。市をはじめ同胞援護会、学生同盟、赤十字社、宗教団体、報道機関などの団体は「愛の運動函館地方協議会」を組織して「引揚援護愛の運動実施週間」などに取り組んでいた(第7編コラム1参照)。 敗戦直後の何年か、函館の街は、引揚者の上陸地、あるいは本州・北海道間の中継地として悲喜こもごもの喧噪を過ごした。引揚者にとって、この時の函館は忘れがたい記憶となって残っている。ある人は函館に上陸した時はまだ子どもだったが、伝染病の疑いをかけられ隔離病棟に入った。隣りに寝かされていた男性が夜中に苦しんで朝には冷たくなっていたことが忘れられないという。せっかく函館までたどり着いていながら、誰にも看取られずに亡くなったその男性が不憫でならなかったそうである。このように函館到着後に死亡した人は923人を数えた。また樺太から函館へ向かう引揚船中で死亡した人は156人で、合わせて1079人が函館の地に眠っているのである(全国樺太連盟函館支部提供資料)。引揚者やその遺族たちの援護更生と相互扶助を目的として、昭和23年4月に全国樺太連盟という団体が結成された。その函館支部によって、先の1079名の慰霊の気持ちを込めて「樺太引揚者上陸記念碑」が昭和52年、ちょうど市役所に面したグリーンベルト(大手町)に建立された(全国樺太連盟編『樺太連盟四十年史』)。
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