通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第4節 敗戦後の社会問題と労働運動
1 困窮する市民

欠乏生活の諸相

生活を支える辛酸

社会保障制度の確立

引揚者をめぐって

社会保障制度の確立   P219−P221

 このように社会問題の領域での課題が多いなか、従来からおこなわれていた育児事業、救護活動、無料宿泊所の活動など、さまざまな努力も続けられていた。
 そのひとつに明治11(1878)年シャトル聖パウロ修道女会の3修道女(マリ・オグスト、オネジム、カロリーヌ)によって創立された日本聖保禄会函館支部の活動がある。同会はその創立以来の孤児養育事業で、5680人にのぼる子どもたちを育てたという(久保田恭平「シャトル聖パウロ修道女会(函館)の育児事業について」)。明治38(1905)年に来函したエル・ネスチヌ・マルキ院長は、昭和25年5月現在、68名の孤児を育てていた。貧窮のうちに路傍に遺棄された子、混血児として生まれたため暗い運命に悩まされている子などが引き取られていた。立派に育った子供たちが妻として母として幸福に生活している様子をみることを何よりの楽しみとしてマルキ院長以下、育児事業に務めているということであった(昭和25年5月14日付け「道新」)。このほか、昭和24年から同会の経営による「白百合乳児院」(後の「さゆり園」)も設けられた。
  昭和25年4月1日、市内大川町で函館市が経営していた無料宿泊所は、函館市民生事業助成会(後の函館市民生事業協会)に委託され、生活保護法による更生施設「函館民生寮」となった。その後の1年間だけで延べ3万8978人の利用者があったという。函館駅にたむろする浮浪者、家出してきて行き先のない者、失恋自殺を志してさまよっていた若者、妻子ともども函館へ出てきて一旗あげようとしたが、所持金も使い果たし困惑していた家族というような人びとが入寮していた。この寮では、とくに収容期限を設けておらず、帰郷を望む者への旅費の給付、就職のあっせんをしたり、子供たちについては養子縁組の世話や婿縁組の世話もしていた。新聞によれば、この1年で、養子縁組4件、独立して世帯を持てるようになった者2件、生業を持って、下宿などで自主の生活を始めることができるようになった者30人というような実績をあげ、人生の再出発の足場としての役割を果たしていたと高く評価されている。函館民生寮は、昭和40年に日乃出町に移転し、47年まで存続した(昭和26年2月8日付け「道新」、函館市民生事業協会提供資料)。

白百合乳児院

昭和20年代後半の共同宿泊所の様子
表1−45 社会福祉事業施設一覧
施設名
設立年
定員
種別
白百合乳児院
昭和24
25
乳児
白百合育児院
23
50
育児
函館厚生育児院
23
98
〃
函館国の子寮
28
20
養護
港保育園
24
119
保育
中央〃
27
110
〃
千歳〃
27
65
〃
港〃
28
30
〃
小舟〃
29
95
〃
駒止〃
23
140
〃
谷地頭〃
25
100
〃
高盛〃
25
110
〃
亀田〃
24
110
〃
真宗寺〃
23
140
〃
東本願寺千代ヶ岱〃
23
85
〃
松川〃
25
57
〃
五稜郭〃
25
34
〃
湯川〃
26
50
〃
高砂〃
29
100
〃
松陰母子寮附属保育園
26
72
〃
函館保育園
27
80
〃
聖徳〃
27
43
〃
鉄道弘済会函館母子寮
26
112
母子
松陰母子寮
26
94
〃
高砂母子寮
29
87
〃
日吉学院
27
45
教護
養老院
26
80
養老
函館厚生養老院
23
50
〃
民生寮
25
130
更生
共同宿泊所
明治43
100
〃
〃
昭和27
70
救護
公益質屋
3
 
公益
台町火葬場
大正10
 
〃
護法院火葬場
8
 
〃
函館縫製作業場
昭和12
30
授産
北海道編物奨励会
25
50
〃
授産場縫製部
23
30
〃
共同作業部洋服部
26
10
共同作業
〃洗濯部
22
10
〃
〃木工部
22
10
〃
中央病院
26
 
医療
五稜郭病院
明治33
 
〃
北海道社会事業協会函館病院
昭和11
 
〃
日赤道支部函館病院
14
 
〃
昭和30年版『函館市勢要覧』より作成
 昭和26年3月には、社会福祉事業法が公布され、公的扶助制度が確立されるに至ったが、この時全国の自治体に社会福祉協議会が発足している。この法律によって、社会保障制度は大きな伸展をみることになる。昭和30年における函館市内の社会福祉事業施設を表1−45に掲げておいた。
 少年非行、少年犯罪の激増する社会情勢に対応して、昭和28年1月16日に教護施設として「北海道立日吉学院」が開設された。昭和28年10月現在、函館、札幌、旭川の児童相談所などからきた29名が生活していた。救護(指導担当の教官)の指導を受け、学課や作業に励みながら更生の道を歩むわけである。18回も暴行を繰り返した13歳の少年、スリを繰り返した12歳の少年、継母とのいざこざで放火事件を起こした少年、家の金品を持ち出すことを繰り返し何か所も施設をまわって来た少年などが集っていた。早く退院したいというのは少年たち全員の希望のようだが、「住み込みの職につき、家には帰りたくない」という少年が圧倒的に多いという。職業指導を受けたいという希望も目立っていて、少年たちが、自暴自棄で生きる望みを持っていないという状態とは違うことがわかる(昭和28年10月10日付け「道新」)。
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