通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第4節 敗戦後の社会問題と労働運動
1 困窮する市民

欠乏生活の諸相

生活を支える辛酸

会保障制度の確立

引揚者をめぐって

欠乏生活の諸相   P211−P216


市内を歩く若い女性のモンペ姿(昭和20年9月7日付け「道新」)
 昭和20(1945)年8月26日付けの「北海道新聞」に、「再建函館十日目の様相」という記事が掲載された。市民生活がどのような事情にあったのか、また今後の暮らしがどうなると考えていたのかを、この記事から探っておきたい。見出しは「この活気、忍苦に生かせ」とあって、この「十日間」には活気があったことをしめしていた。以下に本文から何点かをそのまま抜粋してみよう。

 (食生活)「冷凍鮮魚をはじめ諸物資なども戦争中は一寸考へつかなかつたやうな珍しいものも出廻つてゐる……主食糧の方も市民が贅沢をいはないかぎり最小限度のものは絶対保障されてをり、今後市民が必ず直面する忍苦耐乏の生活を思ふときこれでは余りに勿体ないと一部識者を心配させるほど申分なく感謝の一語につきてゐる」。
 (衣生活)「戦争直後は心の緊張はそのまま服装に表現されて、男子は相変わらず巻脚絆、女子はモンペで行動した。流石に防空頭巾や鉄兜はすでに影を消して物々しい風俗は姿をひそめたが廿日以後暑熱の加はるにつれスカート女性も現れ、夜の街には浴衣がけの男女散歩の姿もみられるやうになつた。男子は背広服がちらほら見えて戦闘帽に替つてパナマ、カンカン帽が少々づつ現れてきた。しかし市民の大部分は臨戦服装で、緊張のゆるんでゐないことを服装が示してゐる。女学校等では生徒に現在の服装をそのまま今後も継続させる方針であるデパートや配給所で子供に涼しさうな服装させたモンペ姿の若い母親たちが行列するやうになったのも、この頃の和やかな生活を物語つてゐる」。
 (住宅事情)「空襲を恐れて郊外へ避難してゐたが時局の急変をみて再びわが家へもどつてみればすでにわが家には見知らぬ疎開者が入つてゐる、さうしたところにいざこざがもち上り悩みの種となつてゐたが、詔勅の下されたあの日からさつぱりと洗ひ流し縁故、無縁故者を問はず一軒に幾世帯も同居してゐる明朗な風景が展開されてゐる、これから冬季に向ふので住宅の問題は重大であるがこれにつき函館貸家組合副組合長大西四郎氏は、今までは資材労力の不足から思ふやうにいかなかつたが大分統制緩和されるだらうと思ふ、組合としてはいま取こはしてゐる防空資材及び、疎開材料をもつて一般戦災者や疎開者を対象に郊外に十坪程度の家庭農園つきの小住宅を建て明るい再建の基礎にしたいと土木現業所と折衝中である」。
 (燃料事情)「燃料の見通は木炭外は大分配給量が緩和される、煉炭やコークスも家庭用にふり向けられるが石炭は工業用や本州向送炭が減少するので塊粉炭とも上級炭を家庭暖房用にふり向けるため数量の増配は期待出来ないとしてもこれまでのやうに雪まじりの粉炭に悩むことはあるまい」。

 このように見通しを語って、もちろん戦争が終わったからといって急激な変化はないが、しかし戦争中とは違うのだという「活気」を、今後乗り越えなければならない苦難に生かそうという意欲が読みとれる。
 実際は、戦時中以上に困難な耐乏生活が一般国民に強いられたのである。住宅の確保は至難のわざで(第7編コラム9参照)、燃料事情も厳しかった(第7編コラム37参照)。敗戦という事態は、政府の統制力を弱体化させ、統制配給制度を政府の権勢で、計画的に管理して行くことを困難にしていた。農村部から生産物を「供出」させ、消費者へ「配給」して行く食糧供給の体制は、敗戦後麻痺しかけてきた。しかも昭和20年の北海道は、とくに冷害による凶作もあって、「供出」は不調だった。全村民あげて「供出」拒否を決議して、「供米横流し」をおこなうことにしたという村があって大問題となるニュースがみられるほどであった(昭和20年12月27日付け「道新」)。夕張郡角田村南学田の集落では、来年の肥料、農具、馬糧の確保について村役場や農業会と交渉したが、何の見通しもないというので、それでは、1俵80円の「供出」をおこなったのでは、生活も営農も見通しが立たないとして「緊急部落会」で相談。1俵200円の闇価格で共同出荷するという計画を立てていることが知られ、決議に参加した103戸すべて食糧管理法違反で摘発されそうだという「全国でも稀有な問題」が生ずるほどの状況となっていたのである。したがって函館市での食糧配給量は、表1−44のような状況となっていた。「基準熱量」1人1日2490カロリーといわれていた時代だったが、この基準の3分の1にも足りない食糧しか配給にならない月もあったのである。
表1−44 函館市食糧配給状況(昭和20年10〜12月)
                             単位:グラム
 
1日1人分配給量
(10月)
同左(11月)
同左(12月)
(15日まで)
主食
326(米は26.6%)
331(同54.7%)
311(同69.5%)
魚類
82
168
33
野菜
132
457
99
総合カロリー
約700
1,205
1,034
昭和21年1月5日付け「道新」より作成
  昭和20年から21年にかけての冬季の家庭用暖房炭の供給も、困難を極めていた。この冬は、1世帯2トン半の配給予定とされていたが、1トンに切りさげ、それも完全には実施されず、半トンだけの配給しか受けられない家庭も多かった。1月という厳寒の時期に石炭がまったくない家庭がたくさん生じた。函館に毎日300トンほどが搬入されていたものが100トンくらいにまで激減しており、いかんともいたし方がないと石炭会社や市経済課も困惑しているだけのありさまなのだった(昭和21年1月5日付け「道新」)。
 このような配給制度の混乱のもとでは、闇価格で高い食糧を得るために、貯金をおろして、あるいは、物々交換のための着物や背広などを用意して買出しに農村部をまわらなければならなかった(第7編コラム6参照)。食糧危機を山野草の採取で切りぬけようと、「山野草の採取運動」もおこなわれた。
 消費財の価格上昇は図1−6でみる通り、昭和21年を基準とすると22年には約3倍、23年、24年には約5倍の暴騰となっており、食糧をはじめとする消費物資が闇価格で流通していた状況が知られるのである。
 こうした悪性インフレーションは、ドッジ・ライン(GHQ経済顧問ドッジの指示によってなされた財政金融引き締め政策)によるデフレ対策で25年には収束過程に入るが、庶民にとっては厳しい毎日が続いた。
 このような状況下で発生すべくして発生したのが闇市である。函館の闇市は、昭和20年8、9月の敗戦直後から「混乱の間隙を縫って生れ」、昭和21年1月現在「四か月余も」、統制を無視し、公定価格の20倍から200倍の売価で営業していた(昭和21年1月1日付け「道新」)。配給制度のなか以外では流通することのないはずの物資が、この松風町通りの露店市場では公然と売られていた。米などの雑穀類から生鮮食料品、菓子類、酒、衣類や靴も売られていた。毎日2万人もの人が買物をして、4万円もの金を払っている。売価は、ひどく高値で闇市の繁昌は、市民の「懐中」を大きく削りとっているのだった(第7編コラム7参照)。
 この「白昼公然」の統制違反を警察も「静観」しているだけだった。敗戦による規制秩序の崩壊のひとつの側面だったのであるが、また闇市を肯定する雰囲気も重要だった。戦時下に強圧的に抑制されていた消費動向が、積極化してきていたのである。某「有閑マダム」や某「会社重役」は「松風町に闇市場が出来ましてからお金さへ出すと何でも簡単に手に入るやうになり本当によくなりましたワ」、「取締官の眼をおそれて陽の目を見ぬ品々が天下晴れて街頭に進出するチャンスを与へて呉れたもので必需品の氾濫してゐることは都市生活者を潤すやうなものでなかなかよろしい」と語っていた。警察もこの頃から「静観」をやめる態度をとりはじめ、盗難品まで扱って暴利を求める悪質業者もいるので、常習的悪質業者は厳しく取締る、という警察署長談話が示され、露店商組合の組合長も、市民の迷惑となる悪質者は、この「縄張」には入れない、と言明していた(昭和21年1月1日付け「道新」)。
 松風町の露店、闇市には、禁止品目が掲示されるようになった。市場の監督、指導は露天商組合に任され、売買禁止品目は「主食糧品、繊維製品、煙草、贓(ぞう)品類」で、指定地域外での営業禁止や、暴利の禁止も図られた。しかし、相変らず、従来どおり「公然と」衣類や煙草も売られていた(昭和21年1月9日付け「道新」)。そのような状況であったから、警察の取締りで大乱闘という事態も生じた。とくに朝鮮人に対する取締りでは大きな騒動が起きて、耳目をひいた(第1章第1節参照)。闇市をめぐっては、全国各地で朝鮮人の経済活動との摩擦が起きていたのであるが、敗戦国の日本人からみて戦勝国となった朝鮮人に対する複雑な感情が、このような衝突となって問題を顕在化させていた。
 もっとも戦時中、品物のないものは、我慢するしかなかった状態にくらべれば、闇市はやはり「捨て難い存在だ」とされ、市場に「臨時交番所」もつくられることになり、闇市、改め「秩序整然たる自由市場」は、明朗な「青空市場」として、過日の騒動後に再発足した。「闇市−蟻の如く集るもゴ尤も−いのちの親」と称され、禁制品以外の商品は、どんどん増加する様子で、鮮魚類の業者も増えて、別の場所に営業地域を拡大する予定もあり、こうして競争の商売となれば、統制を厳しくする場合より、豊富で安価なものが出まわるのではないかと思われるほどであった(昭和21年2月17日付け「道新」)。闇市の変型で「高級闇市」とアダ名されている「日用品交換会」というようなものもあった。不用なものを必要とする人へわけようという趣旨の催しのはずなのだが、石けん、クリーム、タオル、敷布、革靴、ゴム長、鍋、釜、ストーブ、食用油、酒類までが交換の名目で売られている。丸井デパート2階の交換会場は、さながら「高級闇市」だというのである(昭和21年1月5日付け「道新」)。
 混乱する流通市場の状況に応じて、利益を得ようとする稼業は、闇市のほかに、闇市を支える役割も果していたカツギ屋という形もあった。「のこぎり屋」ともいわれ、連絡船で津軽海峡を往復し、往きも帰りも闇の物資を運んで稼ぐ、という稼業である。函館からは、スルメ、鮮魚、野菜などを運び、青森からは、米、酒、りんごなどを運ぶ。海峡を往復するカツギ屋については第7編コラム9に詳しいが、連絡船関係だけではなく、十勝方面の雑穀を函館に運ぶことを仕事としている人たちもいた。新得から函館までの間を往復しているカツギ屋は毎日100人ほどはいた。昭和25年5月の雑穀統制解除となると雑穀価格が値下がりして利益が薄くなり、汽車賃の負担を減らすために、大部分のカツギ屋がキセル乗車をしていて問題となったことがニュースになったりしていた(昭和25年6月23日付け「道新」)。

養老院に届いたララ物資
 なお、戦後このような食糧・物資不足に悩む日本国民にアメリカから「ララ物資」と呼ばれる支援物資が送られてきて、多くの人が助けられたことが知られている。この「ララ」(Licensed Agencies for Relief of Asia[アジア救済連盟])が組織されることになった契機については、まだ詳細が知られていないが、在米日系アメリカ人のイニシアチブでおこなわれた、南北アメリカ大陸にわたった一大募金運動が基になっているという(長江好道『日系人の夜明け』)。
 ララから送られてきた救援物資はGHQの指示で日本政府が保管から分配までを引き受けた。昭和21年12月30日に350トンの救援物資が到着したのを皮切りに24年12月までに116回の輸送があり、総計7174.21トンの物資が届けられた(日本図書センター『GHQ日本占領史23 社会福祉』)。分配は福祉施設を支える施策と特別配給施策によったが、詳しくは前掲書を参照されたい。函館においても、養老院や母子寮、教護院などの施設を中心に食糧や衣類等の物資が届けられ、入所者に配られた。
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