通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 婦人参政権問題 |
婦人参政権問題 P117−P122 ところで、衆議院議員選挙法改正でもっとも注目されたのは女性に参政権が与えられたことであった。昭和20年10月8日付けの「北海道新聞」に、東久邇内閣が総辞職した後、巷の声を聞くというコラム「新内閣への希望」が載っている。「早く新しい日本をつくりあげなければ国民は悠々と待つてゐる暇はない、従つて新内閣に対する国民の期待は大きい」との書き出しで、復員軍人、会社員、学生、女性に発言させている。なかでも「女はなんと言つてもお台所の問題です、婦人参政権を与へて私たち女性を政治的に認めてくれることは嬉いんですが私はそんなことより先づ第一にお台所の方を解決していただきたいと思ひます」と話すこの女性の言葉には、より身近な問題(具体的には食糧危機対策)が当面の緊急課題である、とする考えがある。これは翌年5月19日に皇居前広場に30万人を集め、大衆の憤激をひとつに結集したといわれる「食糧メーデー」での、「憲法より飯だ!」「詔書(ヒロヒト曰く)国体は護持されたぞ。朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね。ギョメイギョジ。」などのプラカードを掲げたデモ行進と通底する認識であった(前掲『日本労働年鑑』)。これより前の8月25日、大正13(1924)年12月に生まれた婦人参政権獲得期成同盟会に参集していた久布白落実、市川房枝、赤松常子、山高しげりらが「戦後対策婦人委員会」を組織し(西清子『占領下の日本婦人政策−その歴史と証言』)、運動を再開、婦人参政権実施を政府、GHQに申し入れていた(『岩波日本史辞典』)。戦後対策委員会「政治委員会」が主張する女性参政権論は、9月18日に「朝日新聞」が報道した赤松の談話にその骨子が示されていた。 「戦争といふ国民生活の変動が女をイヤも応もなく直接政治の渦の中に捲き込んで了つた、今となっては女が政治に参与するのはむしろ当然だと思ひます、殊に戦争中農村で或は工場で闘つた若い女性の発言が今後政治の面に生かされたならばどれほど明るい政治が生まれるか知れません」 「衆議院議員選挙法改正」については略記したとおりで、市川、赤松らは、11月3日に「婦選獲得同盟」の後継者といわれた「新日本婦人同盟」(会長 市川房枝)を結成し、次のような「綱領」に基づいて、婦人参政権の獲得による民主的平和的な日本の建設を目ざす運動を展開していく。 新日本婦人同盟綱領 同同盟の函館支部は昭和21年1月20日に結成された(『日本婦人有権者同盟年表』第1巻)。結成前後のことは定かでないが、昭和21年2月7日に会長の市川房枝が来函し、北海道新聞社主催の講演会を開催した時、講演終了後函館支部幹部らとの座談会で活発な質疑応答がおこなわれたという(昭和21年2月8日付け「道新」)。支部長は石本モヨノ(昭和22年4月30日の初の地方統一選挙で市会議員に立候補したが落選している)で、3月20日には市長へ「婦人の投票し易い投票場」の整備について申し入れをするなどの要請活動をおこなっている(昭和21年3月21日付け「道新」)。 一方、五大改革指令で婦人の解放を要求した総司令部の民間情報教育局(CIE)に、婦人課長として着任したE・ウィードは、市川房枝、藤田たき(津田塾大学教授)と羽仁説子、加藤シヅエらと会談や懇談をおこなって、戦前からの婦人参政権運動や大衆に働きかけるための方法などの情報を得たという。さらに女性向けのラジオ番組の放送を始め(翌年4月初めまで)、民間情報教育局が選挙運動についても指導することとなり、ウィードは女性に投票を促すための情報プランを作成し、ラジオを中心としたメディア計画を大きな柱として据えた。「新聞」については新聞や通信社の編集者との定期会合に、「どうしたら新聞が婦人と選挙について最大限の注意を払うことができるか」「婦人の投票を促すための選挙運動に関する報道について」を討議、提案し、「政府や婦人その他のグループには、婦人の投票の重要性を新聞に声明として発表、あるいは婦人や選挙に関するニュースを″作り出す″ことを促す」といったような方策が作成された(山崎紫生「投票する女性−婦人参政権行使のための占領軍の政策」『高崎商科短期大学紀要』創刊号)。 また、ウィード課長の推奨で、昭和21年3月16日に社会党、共産党ならびに自由主義陣営の少数の女性たちによって「婦人民主クラブ」が生れた。当初は宮本百合子、山室民子、佐多稲子、羽仁説子、松岡洋子、赤松常子、加藤シヅエ、山本杉の8名の合議制で、その後委員組織に変えて、松岡洋子が委員長となった(前掲『日本労働年鑑』)。 婦人民主クラブの羽仁説子が、生活の不安、教育制度、国民保険といった身近な問題から、女性の政治的関心を呼び起こして、来るべき総選挙での棄権防止を訴えた。その談話が3月17日付けの「北海道新聞」に掲載された。 憲法草案が発表されて主権在民は女も責任を負はなければならない、今迄女は家庭の封建的空気に悩んできた、それが新しい憲法によつて画期的な改革が行はれ女の地位が高められやうとしてゐるのですから憲法の問題も自分の身近な問題として考へて見る必要があります、今度の選挙はかういふことから是非とも女の政治的関心を高めなければなりません、自分の選んだ代表がこれから先の政治をやつてくれるのだといふことを考へれば一人でも棄権することは出来なくなるでせう、今日現在の不安だらけの生活はよい政治が行はれてゐない証拠です、よい政治が行はれればお台所の不安なんかすぐ解消します、アメリカでは夫婦で政治の話をして意見が合はなければこの問題を議員の家に電話してどつちが正しいか決めてもらうといふ程政治に熱心だといはれていますが、日本の家庭でもこれ程でなくても大いに政治の話が出て来てよいと思ひます、お母さんは誰もが子の教育には煩悶してゐます、国民学校の児童でさへこの頃は賭博をする不良になる、また試験地獄がある、文部省でやつてゐる政治では子を教育しなければならぬ親の心配は消えない、女は政治の問題では不慣れだが教育の問題には熟練してゐます、安心して委せる教育制度をつくつてくれる政治家をさがし出さなければならない、保険問題もさうです今は世のお母さん方は子供が病気になれば普通の経済ではやつて行けないことを百も承知でせう、病院も費用がかかりすぎます、お産の費用も同じです、政府の国民保険は実際は使へない保険ではないじやありませんか、もし婦人が今度の選挙に棄権するならばかういふ問題で何時迄たつても解決されないのです、みんなが立派な代議士を選ばなければなりません、棄権は三合配給を受ける権利を自ら放棄するやうなものです 羽仁の談話の掲載に象徴されるように、「北海道新聞」は婦人参政権の啓発に積極的であった。衆議院議員選挙法の改正が審議されているさなかに北海道婦人会と共催で「総選挙に対する婦人の公民知識啓発」を目的に「公民教育講座」(真砂町会事務所、講師土屋北海道大学教授・北海道新聞顧問斎藤清子)を開催していた(昭和20年12月14日付け「道新」)。また、前述の婦人政治講座を始めた新日本婦人同盟の市川房枝が、「函館の婦人よ与へられた参政権は立派に行使しやうではないか」、と「婦人と政治の問題をひつさげて」函館にやって来た。昭和21年2月7日、新川国民学校で市川と原田清子の講演会が開催された。この講演会は、北海道新聞社の主催で、「折りから極寒にもかかわらず開会一時間前から聴衆が続々とつめかけ定刻には千を超える熱心な聴講者」で会場は埋めつくされた。原田の「日本における民主主義運動」の講演に続いて「市川女史は往年に変らぬ闘士的風格をもつて拍手裡に登壇″婦人参政権を如何に行使すべきか″の演題をかかげて婦人参政権の意義、内容、政界の現状政党の動き、来るべき総選挙の重要性と婦人の一票の責任等に関し平易に親しく話しかけ最も具体的に婦人の政治意欲を昂揚」させた(昭和21年2月5・8日付け「道新」)。その後、函館では市役所と北海道新聞社との共催で、2月16日から25日の日程で「婦人と政治に関する座談会」が町会単位を基礎とした8地区ごとに開催された。講師は第二師範学校教授高根仁、北海道新聞函館支社長原忠雄、同記者川崎八重の3名で、「再建日本の基礎となるべき民主議会の確立をめざす衆議院議員総選挙に婦人は与えられた参政権の貴重なる権利と義務を如何にして行使すべきか」を座談会によって「婦人の自覚を喚起する」ものであった(昭和21年2月15日付け「道新」)。この報道は事前報道で、実際に集まった人びとの数は確認できない。 昭和21年3月11日、遅れていた第22回衆議院議員選挙が告示され、運動の成果が問われる4月10日の投票日を迎えることとなった。 |
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