通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
|
第1章 敗戦・占領、そして復興へ 政党の復活 |
政党の復活 P116−P117 政治の分野での民主化は、政党・政治活動の自由を保障する「民主化指令」に基づく一連の措置が進むさなか、第89回議会(臨時会)の召集を目前にした昭和20年11月に、諸政党が次々と誕生することで活発化していった。まず、安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の発起により旧社会大衆党・旧労農党など、戦前の無産政党の左右両派の政治的大同団結をめざす日本社会党が、11月2日に結党大会を開き、日本社会党を結成した。書記長には片山哲が選ばれ、衆議院議員17名が参加した(『日本労働年鑑』第22集)。なお、結党大会直前に新生社会主義運動促進のため来函した全日本社会党準備委員の米窪満亮は、中央における社会主義運動の経過ならびに新党結成の見通し、その他新政治運動について語った後、「今後の政治の在り方」を、「敗戦の今日、場当たり的な政策であつてはならず、大向ふをうならせるだけの過激なものであつてもならぬ」し、「官僚閥による強権政治はやがて失われてゆく」だろう、「本道の政治運動は一般に低調で函館市が十一月中に社会党支部の結成をする段取りとなつてゐるのみである」と述べている(昭和20年10月27日付け「道新」)。 なお、米窪満亮の談話にある社会党函館支部は、結成準備委員会(委員長船舶運輸会函館支部元広昇)を経て12月2日に東川町西別院(西本願寺函館別院)で結成大会(支部長官宮岸十次郎)が催されたようである(昭和20年11月30日付け「道新」)。 11月9日には鳩山一郎らの大政翼賛会非推薦議員が中心となり、日本自由党が結成された(総裁鳩山一郎、結成時 衆議院議員45名)。自由主義的保守政党で、函館にも関係の深い日魯漁業(株)社長の平塚常次郎、副社長の河野一郎が参加、河野は党の幹事長となった (平塚喜壽記念刊行会『喜壽平塚常次郎略譜』)。続いて16日には旧大日本政治会所属議員の大部分を糾合して日本進歩党が結成された。旧民政党の町田忠治を総裁に、衆議院議員274名を擁し、第1党となった。 さらに、12月1日から3日まで日本共産党が第4回党大会(大正11年、同12年、同15年の3大会はいずれも非合法下に開催)を開催、徳田球一を書記長とした。敗戦後も獄中にあった共産党員は、GHQのいわゆる民主化指令を受けて幣原内閣が10月10日に実行した政治犯の釈放で解放され、10月20日には党機関紙「赤旗」も11年ぶりに再刊されていた。遅れて12月18日、協同組合主義による改革を掲げた日本協同党が結成され、雑誌「改造」の社長山本実彦が委員長に就任した(前掲『日本労働年鑑』)。 衆議院は、政党が解消された昭和15(1940)年以来、久しぶりに議事運営が政党を中心としたものに戻った。第89回議会(臨時会)召集日(11月26日)における衆議院の勢力分野は、日本進歩党273名、日本自由党46名、日本社会党15名、無所属倶楽部92名、欠員四40名であった(伊藤隆『目で見る議会政治百十年史』)。第89回議会に臨んだ北海道選出衆議院議員19名の政党別内訳は、日本進歩党が山本厚三、手代木隆吉、松浦周太郎、前田善治、大島寅吉、南條徳男、南雲正朔の7名、日本協同党が黒沢酉蔵、北勝太郎、安孫子孝次、深沢吉平、吉田貞次郎、星野靖之助の6名、日本自由党が板東幸太郎、奥野小四郎の2名、日本社会党が正木清、渡辺泰邦の2名、真藤慎太郎、東條貞の2名は無所属であった(山本紘照『北海道選挙大観』)。このうち、函館市を含む北海道第3選挙区から選出されていた議員は、真藤慎太郎、大島寅吉、渡辺泰邦である。 |
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ |