通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 引揚者の概況とその内訳 |
引揚者の概況とその内訳 P99−P101 この第1次引揚げを皮切りに、翌22年以降引揚げは第5次までおこなわれたが、その概況を示すと表1−6の通りである。なお、引揚者の輸送には、雲仙丸などのほかに徳寿丸(3637トン、収容人員2000名)・千歳丸(2668トン、同1500名)などあわせて20隻の汽船が使用されているが、最大は6000トン級の信洋丸・大拓丸・山澄丸・栄豊丸・英彦丸・大安丸で、最小は1016トンの會寧丸だった。この表にみられるように、第1次から第5次までで31万1452名の一般人と陸海軍人・軍属の引揚げがおこなわれた。さらに、引揚船内での出生者が86名、死亡者が156名いたが、出生者は引揚人員に含まれている。このほかに、日本人の正規外入国者が50名、旧日本軍の軍人として引揚げてきた朝鮮人が425名、同正規外入国者が1名いた。 これらの引揚者を一般人と陸海軍人・軍属に分けて示すと、 表1−7のようになる。引揚者全体に占める軍人・軍属の比率は、第1次(51.1パーセント)、第2次(2.7パーセント)、第3次(13.1パーセント)、第4次(9.0パーセント)、第5次(2.2パーセント)となっており、第1次引揚者の約半数が軍人・軍属だったほかは、圧倒的に一般人の引揚者が多かったのである。 これらの引揚者をその地域別にみてみよう(表1−8)。この表でも明らかなように、函館援護局の取り扱った引揚者全体の約90パーセントが樺太地区からの引揚者であった。それ以外では、千島、満州(中国東北部)の両地区を合わせて9.6パーセント程度であり、朝鮮・中国地区からの引揚者はいずれも1パーセント以下である。
その原因として函館援護局の文書は、「北海道が樺太・千島方面への経由地であり、主に東北地方の出身者がまず北海道に渡り、ついで樺太に渡って四〇年以上も永住していた者が多く」、このために「内地との縁故先とも縁遠くなり、無縁者になった者が多い」、と分析している(函館引揚援護局史「函館引揚援護局の特殊事情」)。 |
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