通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
4 函館引揚援護局の設置と日本人の集団引揚げ

引揚者受入官庁の設置

函館引揚援護局の開設と諸施設

函館引揚援護局の組織

樺太・千島からの引揚げ状況

引揚者の概況とその内訳

朝鮮人の帰国業務

函館引揚援護局の開設と諸施設   P95−P97

 前記のように、厚生省函館引揚援護局が設置されたのは昭和20(1945)年12月14日のことで、21年3月12日に函館援護局と改称された。以下、函館引揚援護局局史係編『函館引揚援護局史』によって概要を記述する。その設置が公示された当時、函館には、運輸省の所管する北海道海運局函館臨時海港検疫所のほかに第1復員省北部復員監部の出先機関である北部上陸地支局、第2復員省所管大湊地方復員局の出先機関である函館上陸地連絡所などがそれぞれ開設されていたが、援護局の設置によって、昭和21年3月13日にこれらの機構の一部が援護局の第1、第2復員部に吸収された。初代局長には持永義夫(北海道庁長官)、次長には福島貞夫が任命され、仮事務所を函館市役所内に、臨時連絡所を音羽町(現若松町)の高龍寺法務所内に開設した。仮事務所は、その後函館市公会堂、金森ビルディング(末広町)などを転々としたが、最終的に21年5月、旧北部軍七一部隊兵舎跡(千代ヶ岱町)に移転し、ここに援護局の閉局まで本庁舎が置かれていた。
 援護局の施設には、(1)本庁舎と附属建物、(2)検疫所と検疫病院、(3)宿舎、(4)病院(診療所)、(5)倉庫等があったが、昭和23年度末の調査では次のようになっている。
 (1)本庁舎と附属建物
 函館市千代ヶ岱町135番地にあり、木造瓦葺き2階建て2棟、亜鉛板葺き平屋建て14棟からなり、これらを合わせた延べ坪数は1470坪であった。これらの建物に、総務部・業務部・復員部の各課が入居して業務をおこない、その他に修理工場・宿舎・会議室・倉庫・車庫・守衛所などがあった。
 (2)検疫所と検疫病院
 函館市台町35番地にあり、木造亜鉛板葺き平屋建て18棟、石造り2階建て倉庫1棟(14坪)からなり、この延べ坪数は約861坪であった。なお、この検疫病院は、昭和24年1月6日に漏電により機関室から出火して建物一棟を全焼したため、復旧後の規模を示している。
表1−5 引揚者援護寮
寮名
延坪数
収容人員
千代ヶ岱援護寮
1,846
2,400
浅野町援護寮
543
1,000
海岸町援護寮
939
2,000
鶴岡町援護寮
318
800
『函館引揚援護局史』より作成
 (3)宿舎
 引揚者の収容施設であり、千代ヶ岱援護寮(函館市千代ヶ岱町135番地)・浅野町援護寮(函館市浅野町1番地)、海岸町援護寮(函館市海岸町64番地)・鶴岡町援護寮(函館市鶴岡町34番地)の4寮があった。各寮の規模と面積は表1−5の通りである。
 なお、鶴岡町援護寮の収容人員は、最初1000名であったが、建物の一部を返還したために800名に減少した。
 (4)病院(診療所)
 最初援護局所属の病院は、検疫所付属検疫病院のみであったため、一般の要入院患者は援護局に隣接した国立函館病院以下、市内の公・私立病院に委託する方針を取ったが、国立病院に集中し過ぎるので、本局内の施設を利用してその分室を設置した。
 (5)倉庫
 援護局の倉庫は、本庁舎・検疫所・各収容施設にそれぞれ若干の倉庫を所有していたが、膨大な局保管の物資を収容するために、民間倉庫の借り上げを行って対処した。
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