通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 引揚者受入官庁の設置 |
引揚者受入官庁の設置 P93−P95 昭和20年の敗戦時において、朝鮮、中国、樺太(サハリン)、千島など海外で生活していた人びとや陸・海軍の軍人などの日本人は総数660万人以上といわれ、その速やかな引揚げが政府の重要な課題として浮上していた。一方、日本国内には、戦時体制のもとで植民地朝鮮や中国から強制連行された多数の朝鮮人・中国人労働者がおり、彼らの本国への帰還問題も大きな課題であった。このうち、海外在住日本人の引揚げは、当初は陸海軍省と内閣調査局・内務省管理局が担当したが、昭和20年10月18日、厚生省が引揚げに関する中央責任官庁に指定された。同省では、最初は社会局引揚援護課・衛生局臨時検疫課が所管していたが、翌21年3月13日、同省外局として引揚援護院が創設された。一方、陸海軍人の復員を担当する陸軍省と海軍省は、20年11月30日にそれぞれ第1復員省・第2復員省となり、21年6月14日、両者は合併して復員庁が設置され、第1復員局・第2復員局となった。その後、昭和22年10月15日に第1復員局は厚生省の管轄となり、第2復員局は総理大臣の直属となったが、昭和23年1月1日、厚生省復員局の第2復員局残務処理部となった。そして、同23年5月31日、先の引揚援護院と厚生省復員局が統合されて引揚援護庁が設置され、以後は、同庁が引揚・復員に関する業務を所管することになった。 海外からの日本人引揚者を受け入れるための施設が、地方引揚援護局である。昭和20年9月、舞鶴ほか9港が上陸地に指定され、それぞれ引揚民事務所が設置されたが、これらの施設を前身として同年11月24日、浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7引揚援護局と横浜(浦賀)、仙崎(下関)、門司(博多)の3出張所が設置された。さらに、これに遅れて12月14日、函館と大竹(広島県)の2引揚援護局が設置された。これらの援護局は、昭和23年5月、引揚援護庁が設置されるまでの間にその使命を終えて逐次廃止され、援護庁に引き継がれたのは佐世保・舞鶴・函館の3援護局に過ぎなかった。 昭和23年以降の引揚者は、その大部分がソ連地区からであり、舞鶴引揚援護局はナホトカ・元山・大連地区からの、また函館引揚援護局は、樺太・真岡からの引揚者の受け入れに当たってきたが、函館援護局(21年3月12日に改称)は昭和25年1月1日に閉鎖された。したがって、昭和25年3月現在、引揚援護業務に当たっていたのは舞鶴・佐世保の2局と横浜援護所(昭和22年5月1日、横浜検疫所内に設置)の3施設に過ぎなかった(引揚援護庁編『引揚援護の記録』)。 この間、25年2月22日、ソ連のタス通信は、ソビエト政府から発表の権限を与えられたとして、突如日本人捕虜の送還はすべて終わり、ソ連の日本人残留者は戦犯2458名と9名の病人のみであると発表した。このタス通信の報道に対して、日本の外務省管理局引揚課は、「納得出来ぬ」との談話を発表している(昭和25年2月23日付け「道新」)。この時期は日本の占領期であり、当然のことながらGHQによる日本占領業務の一環として、その指揮・監督のもとに引揚業務がおこなわれていたのである。そして、対日講和条約の発効した昭和27年4月28日以降は日本政府に引き継がれた。その主務官庁であった引揚援護庁は、引揚者の減少と共に昭和29年3月27日に閉庁となり、以後は厚生省の内局である引揚援護局に受け継がれた(厚生省引揚援護局編『続・引揚援護の記録』)。 |
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