通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民 人口の急増 |
人口の急増 P16−P17
まずこの表からうかがえる各時期の特徴的なことは、第一に、昭和13年の人口が戦時中であるにも拘らず22万863人を数え、戦前における最多の人口に達したこと、しかし翌14年から16年までは連年減少し、昭和17年と18年には一時若干増加したものの昭和19年と20年には再び連年減少し、この両年だけで3万余人の人口減となり、敗戦の年である20年にはついに18万1531人にまで減少したことである。この昭和20年の人口は昭和恐慌期直前の昭和4年の人口(18万300人)を若干オーバーするに過ぎない人口であった。 第二の特徴は、昭和21年からは再び連年にわたって人口が増加したことである。政府は同年3月8日付けの勅令により戦災都市の食糧や住宅復旧状態を鑑みて、転入者を抑制する旨の指示を出し、函館市もこの「転入抑制都市」に指定された。昭和21年に転入を許可されたのは、「国民生活再興業務に従事する者」や「官公吏」などに限られたが、それでも本人と扶養家族を合わせると、2万7731人にのぼった(昭和21年『函館市事務報告書』)。その後、24年にはついに22万6584人に達し、戦前の最多人口である昭和13年の人口をオーバーするに至った。20年からわずか4年間で4万5000余人の増加をみたわけで、年平均1万1000余人の増加をみたことになる。 この時期は、敗戦後の復員に伴う第1次ベビー・ブームの時期(昭和22年から24年)に相当しているので、人口の増加には、こうした出生者の増加という要因が潜んでいることは否めないが、この時期が樺太・千島からの引揚者を多く迎えた時期であり、しかもそのうち函館市に残留した人びとが25年8月現在で2万余人に達していたという事実を考慮するならば、こうした函館市に残った多くの引揚者の存在が人口増の大きな要因になっていたものとみなければなるまい。 さらに第三に、昭和25年以降は毎年人口が増加して、32年にはついに25万人をオーバーするに至ったことである。この時期は昭和26年の対日講和条約の調印に伴い占領軍による日本の統治方式に終止符が打たれるとともに、経済的側面では戦後の復興期から高度経済成長期の初期に相当していた。しかし翌33年から増加の勢いに陰りがみえ始めただけでなく、同年には300余人の減少をみるに至ったという事実にも留意しておきたい。 |
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