通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

引揚者の窓口   P13−P16

 敗戦時に海外には軍人・軍属および一般邦人が660万人以上いた。その地域別の正確な人数は定かでないが、昭和21(1946)年から昭和51(1976)年までの地域別引揚者数をみると、もっとも多かった地域が中国と旧「満州」で、両地域のみで全体の41パーセント強を占めている。この両地域に大連・香港・北朝鮮・韓国・台湾を含めると、全体の約60パーセントに達する。またこれら地域以外で多いのは東南アジアで、ついでオーストラリア、フィリピン、太平洋諸島の順になっている(金原左門・竹前栄治編『増補版 昭和史』)。この地域別在外日本人のありかたで注目しておきたいことは、旧「満州」地域と中国の両地域がきわめて多かったことである。とくに旧「満州」地域が中国についで多かったのは、いうまでもなく「満州事変」を契機に日本が中国東北部に日本の傀儡政権である「満州国」(現在中国では「偽満州国」と呼んでいる)を建国し、対ソ戦に備えた人的資源の確保、同地域における経済的利権の確保、昭和恐慌で疲弊した国内農村の過剰人口のはけ口といったことを目的とし、農山漁村更正運動の一環として同地域への移民を奨励し、さらに日中戦争期には成人の移民だけでなく「満蒙開拓青少年義勇軍」と称して多くの青年たちを同地域に送り込んだことによる。
 ともあれこうした本土以外の広範囲にわたる地域からの軍人を含む日本人の引揚業務は、敗戦直後の日本にとって大変な業務であった。厚生省が引揚業務の中央責任官庁となり、昭和20年11月24日には浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7か所に地方引揚援護局が設置され、12月14日、函館にも引揚援護局が設置された。函館引揚援護局の主たる業務は、北緯50度以南の南樺太(以下「樺太」と記す)と千島からの日本人の引揚業務であった。敗戦時の両地域の在留邦人は、樺太が軍人2万1520人、一般邦人35万人、計37万1520人、千島が軍人4万4277人、一般邦人4221人、計4万8498人で、合計42万18人と推定れている(函館引揚援護局局史係編『函館引揚援護局史』)。しかしこの両地域からの引揚業務は、アメリカ・中国・オーストラリア・イギリスの各国軍管轄地域からの引揚業務よりはるかに遅れた。というのも、この両地域は昭和20年8月9日ソ連が対日宣戦布告をして以来ソ連軍が侵攻し、21年2月20日、樺太・千島の領有を宣言、ソ連の管轄地域となったからであった。
 樺太・千島からの引揚者の人数や帰国についての経緯は第1章第1節に記されているが、旧「満州」地域や中国地域からの引揚者総数と比較すると人数自体は多いとは決していえず、むしろ少ない方に属する。しかし、ほかの地域からの引揚者にはみられない大きな問題を抱えていた。
 まず第一に、彼らが居住していた樺太・千島の歴史的性格が彼らの運命に大きな影響を与えたことである。すなわち北千島を含む千島列島全域は明治8(1875)年5月7日に日露間で調印された樺太千島交換条約によって日本領になった地域であり、また北緯50度以南の樺太は、明治38(1905)年9月5日に日露戦争終結のために日露間で調印された日露講和条約(ポーツマス条約)によって日本領に編入された地域であった。この両地域の居住者の多くはほかの引揚地域の居住者に比較すると当該地域に居住していた期間がはるかに長かっために、その地をすでに第二の故郷にしていたのである。
 そのため第二に、命からがらようやく函館に引揚げることができたものの、もほや帰るべき故郷がなくなっていた人びとが非常に多かったことである。こうした人びとのことを当時「無縁故者」と呼んだが、函館に到着した引揚者にはこの無縁故者がきわめて多かったのである。函館引揚援護局では彼らの居住地の斡旋に大きな力を注いだが、その大多数は、住み慣れた樺太や千島と気候風土の類似した北海道への居住を希望した。しかし北海道のみで彼らの希望をすべて受け入れることは不可能であったため、他府県にも協力を求めなければならなかった。その結果、無縁故者10万9674人のうち、その約55パーセント強に当たる6万115人が函館から新たな居住地に移住したが、その移住先は、北海道が4万2197人で移住者の70.2パーセントを占めてもっとも多く、ついで岩手県、青森県、福島県、山形県、宮城県、秋田県、徳島県の諸県に移住した。つまり大部分は北海道を中心として東北6県に移住したわけである(前掲「函館引揚援護局史』)。函館に引揚げることはできたものの、その後の居住地が決まらなかった人びとが4万9559人を数えたことになるが、実際に函館に残留した引揚者の数との間には大きな開きがあった。昭和25年版『北海道年鑑』によると、同年8月時点で函館市に居住していた引揚者は2万53人となっており、昭和26年9月2日付けの「函館新聞」の記事でも26年時点で函館に定着した引揚者を3932世帯、2万人としているので、最終的に函館に残留した引揚者は2万余人であったものとみられる。
 そうすると4万9559人から2万人を差し引いた残りの2万9000余人はどうなったのであろうか。現在のところ、彼らの動向を知ることはできないが、函館市に残留した引揚者が約2万人だったとすると、25年から26年までの2年間に無縁故者の半数以上が何らかの形で函館を去ったことになる。25年の函館市の人口は次にみるように22万8994人であったから、25年時点で、引揚者が全人口の9パーセント弱を占めていたことになる。それだけにこの行き先のない樺太・千島からの2万余人にのぼる引揚者の問題は、敗戦直後の函館市の姿を特徴づける大きな問題となった。住宅・就業・生活などの問題に加え、函館市の人口動態にも大きな影響を与えることになったからである。そこで次に敗戦直後の函館市の人口動向の特徴を垣間みてみたいと思う。
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