通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 函館地方文化事件 |
函館地方文化事件 P1107−P1108 昭和10年代に入ると当時の新聞は「函館の赤/続々転向」の見出しを掲げ、全協の「左翼分子」が公判廷前に獄中から裁判長あてに「転向手記を提出」するなどの報道(昭和10年2月9日付「函毎」)を続けている。そして、当局の取り締まりは文化・宗教関係者へと広がっていった。東京で鎌倉電線争議団員であった大和庄祐(四・一六事件で検挙)は執行猶予の釈放後、帰函して文化運動の組織化を担い、中央のプロレタリアエスペラント運動団体と連絡をとり、プロエス運動を展開し、「殖民地社」に属していた。殖民地社は函館の鈴木栄市、能登勇らの左翼によって昭和11年3月に創立され、機関誌「殖民地」を発行していた。同年12月発行禁止処分を受けるが、「殖民地社」を「函館新世紀社」と改名、雑誌「新世紀」を発刊した。また、函館には阿部十四雄らが中心となり、同人雑誌グループ開墾地帯社が結成され、道内外の文学グループとの交流を行っていた。 これらの文化団体が危険視され、昭和13年2月25日、大和庄祐ら23名が検挙された。これを函館地方文化事件と言う(『社会運動の状況』文化運動編・第2巻、先掲『不屈二十年の歩み』)。 昭和16年3月、治安維持法が全面改正されて予防拘禁制度が導入された。これは治安維持法違反の「罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナル」、すなわち「転向」しない者を拘禁状態におくという悪法であった。予防拘禁所は東京中野の豊多摩刑務所に設置(敗戦前に府中刑務所へ移転)された(奥平康弘『治安維持法小史』)。同年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に行われた「非常措置関係」で、函館で最初に検束され予防拘禁所に送られたのは大和庄祐、西館仁であった。また昭和12年12月の労農派(人民戦線)事件で検挙され収監されていた函館出身の武内清は、昭和17年非転向のまま満期出獄したが、そのまま予防拘禁所に送られている(先掲『武内清の想い出』)。 |
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