通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

2 昭和初期の教育

1 初等教育

欠食児童

尋常夜学校

学齢児就業率の上昇と教育費の重圧

授業料問題

続く二部教授

尋常夜学校   P672−P674

 このように、家庭の経済事情によって就学の機会を得られないでいる児童たちに、学校教育の機会を与えようとして設置されたのが尋常夜学校であった。尋常夜学校には、「病気の親のために昼菓子を売ったり働きに出た母親のために家で昼中妹や弟の守をして夜になってから学校へ行く」子どもや、「中年の三十四にもなる女の生徒や二十五の男の生徒」もいて、「真剣の勉強ぶりは他校にその例をみない程である」といわれた(昭和7年5月11日付「函毎」)。大正6年に創設されて以来、昼間働いている学齢児童や学校教育の機会を逸した学齢超過者に、学校教育の機会を提供するものとして活用されていた様子がうかがえる。
 昭和期における尋常夜学校の児童数は表2−158の通りである。
 尋常夜学校の課程は表2−159のとおりであるが、昭和8年の大森夜学校の教育の様子を、同校の校長は「わが大森夜学校ではさきにも云ひました通り正しき労働者を作るといふ事に力を入れているのです。で、男子には作業を中心とする事、即ち木工、竹細工、藤細工、紙函製造と云った工合の、手仕事を教へ女子には裁縫を教授してますが、つまり教へ方の中心は「作業」にあるのです」と説明している。因みに同校の校歌は、「西には遠く臥牛を/学びのひまに仰ぎつゝ/ほまれは高し勤労の/大森夜学、我母校」というものである(昭和8年4月26日付「函毎」)。「勤労の大森夜学校」が同校の教育方針であったことが明らかである。昭和9年の市の『事務報告書』は、「本校就学者ハ一般ニ恵マレザル家庭ニ生育シ昼間工場其ノ他ニ於テ業務ニ従事シテ家計ヲ助クル者多キモ一般学習ニ熱心ニシテ其ノ効果亦見ルベキアリ」と記している。就学者の熱心な学習ぶりは、広く社会一般に認められていたようである。
表2−158 函館市尋常夜学校児童数
年度
児童数
昭和2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
63
72
156
181
224
341
536
260
537
612
538

312
247
注)各年度『函館市学事一覧』による。
  表2−159 函館市尋常夜学校課程表(昭和3年)
教科目 \課程\学年
第1学年
第2学年
第3学年
第4学年
尋常小学校
第1、2、3学年程度
尋常小学校
第4学年程度
尋常小学校
第5学年程度
尋常小学校
第6学年程度
修身
国語
算術
日本歴史
地理
理科
裁縫
1
7
4



1
5
4



(1)
1
5
4
1
1
2
(1
1
5
4
1

1
(1)
12
(13)12
(14)12
(14)12
備考
括弧内の数字は女児の毎週教授時数を示す。
注)『函館市学事一覧表』より。
 当時貧困児童の教育に当たっていた一教師は、昭和12年10月現在における児童の家庭の職業について、総数349名中、日稼労働者218名、小売商人31名、大工11名、空物売9名、職人類8名などの他に、物品修繕、粕干、鰯の釜たき、馬車追、井戸掘、工場雑役などを挙げていた。また同11年10月現在の補習科児童の労働状況については、総数95名中、職工女工33名、職人徒弟11名、新聞配達7名、女中6名の他、内職、給仕、子守、便利屋、除雪人夫などを挙げている。続いてこれら児童の学習状況について「是等の児童は、夜、労務先からかへる父兄に、自分の子守しつゝあつた幼児をわたし、そのまゝ登校するのであります。したがつて彼等は、その家庭に於て読書勉強等の時間を全然持たないのであります。これが亦、彼等の学校に於ける学習に対しても、出席不定、長期欠席、早引、遅刻等となつて、直接、間接に多大の影響を与へるのであります」と述べている。恵まれない条件のもとで、学習を継続するのは容易ではなかったのである(『函館教育』第220号、昭和13年2月)。
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