通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第6節 民衆に浸透する教育 1 大正デモクラシーと教育 2 中学校 中学校教育の全国的動向 |
中学校教育の全国的動向 P651−P653 大正後期には、全国的に中学校数および生徒数の著しい増加がみられる。この時期の中学校の拡張は、第1次世界大戦後の社会構造の変化に対応する高等教育機関の大拡張が中学校に波及したためであり、大正デモクラシー期の特色を示している。大正7年12月の「高等学校令」の制定公布は、中学校の制度にも影響を与えた。高等学校は、男子の高等普通教育の完成として位置づけられ、7年制を本体とすることとなった。そのため、高等学校高等科(3年制)への入学資格は中学校第4学年修了程度に改められることとなった。このことは、修業年限短縮や英才を考慮したものとされた。また、明治32年以来高等普通教育の最終段階として位置づけられた中学校の性格が変わることとなった。さらに大正8年の「中学校令」の改正により、中学校の入学資格は尋常小学校の第5学年修了者にも途が開かれることとなった。この改正で、中学校には特別の必要がある場合、予科を設置することができることとなった。このように、この時期の中学校をめぐる制度の改革は、中学校の数や生徒数の増大を背景に、多様なコースを用意しつつ、英才への配慮を具体化するものとなっている。ともあれこの時期以降、男子普通教育すなわち中学校教育は、「準備教育」か「完成教育」かの議論が持ち上がり、「完成教育」とみる場合にも、一般教育か職業教育を加えたものか、の議論が絶えなかった。 中学校教育の普及方途としては、明治期以降中学校の増設と、生徒定員の拡大によって行われた。そのうち中学校の増設に当たっては、地方の市町村が設立資金を寄付などによって負担し、府県当局が設立を計画するというのが一般的であった。そのほかには、市町村や私人が中学校をまず設立し、これを府県に寄付し、移管する方式も採用されている。 他方、中学校への進学の要求に応ずる方法として、生徒定員の基準を改訂し定員増をはかることが考えられ、実施されていった。明治期以降の生徒定員基準をみると、明治34年400以下、大正2年600以下、大正10年800以下と年々増大したことがわかる。他方、特別の場合、明治34年600まで、大正2年800までとされ、大正2年には、文部大臣の認可によるとされた。中学校への入学者の志願者に対する比率は、大正期には40パーセント台にあり、大正末期には45パーセントを割るほどに低下している。これが50パーセント台に上昇するのは昭和の初期である。なおこの時期には、中学校数の増加に伴う学校間格差の発生が、有名校・名門校への志願者の集中をもたらし、これが入学難の一因をなしていたことも指摘されている。中学校入学者は、この時期には、その中心が全国的に地主層の子弟から新中間層の子弟へと、変化する兆しを見せていたといえる。このような傾向は、昭和期に入って一層顕著になるのである。 卒業生の進路は、大正期には「進学」が年々比率を高め、30パーセント台から40パーセント台前半に達している。その一方で、「就職」や「その他」 が減少する傾向が現れている。「その他」の内には、受験のための浪人が多く含まれていたとみられており、進学が容易でなかったことがわかるのである。当時、進学希望が容易にはかなえられず、就職も希望に反しておこなう状況がみられ、中学校教育の問題点の1つであったといえる。ともあれ、この時期の中学校は、「進学」と「就職」の機能を果たしていたのであって、こうした状況を背景として、昭和期の第1種課程と第2種課程の区分が教育課程上に出現することになるのである。
大正期の臨時教育会議の答申において、「理解力ト独創力トノ啓発」の必要が説かれ、「観察実験ヲ旨トシ常ニ根本ノ理解ニ重キヲ置キ応用独創ノ能力ヲ啓発スル」ことが必要だとされていたが、各地の中学校で自学自修の奨励、他律的教授から自発的教授への進展が唱えられるなど、教授法改善の動きがみられるようになる。一方大正デモクラシーの影響が学校の課外活動にも及び、活動内容の多様化が進んだ。校友会のもとで、職員の指導下での自治的運営の奨励がはかられていった(仲新監修『学校の歴史』第3巻)。 |
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