通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 7 大正・昭和前期函館陸上交通 5 悪道と海岸町の踏切 道路舗装開始 |
道路舗装開始 P571−P573 大正6、7年から道路問題は、函館区の一大問題と化した。函館駅、桟橋を核とする若松町、海岸町の鉄道町ともいうべき新市街地の突然の出現の副産物ともいうべき荷馬車、加えてトラック交通量の激増突出が生んだものといえる。その故に、その改善は、道路舗装、つまり、土盛りでなく、堅いコンクリート舗装による外はなかったのである。それには、莫大な金がかかる。とても、区民独力では不可能であった。それでも、道路改善は、区民の自主的努力から始った。この事は、函館市民の自主性を物語る。函館市民の誇るべき歴史の1つであると思う。大正9年9月の区役所の行った試験道路(幅2間、長さ100間、コンクリート基礎、アスファルト舗装、東浜通り)の築造後、宮本武之助等の市民有志が自主的に結成した道路改善会の区会への提議、区民への行動提案、それに応えた船場町、海岸町を始めとする各町内での実践(人道新設を中心とする)、道庁への陳情等、区と一体化して行われた区民運動がそれである。
函館市は大正12年、アスファルト工法の経済性、技術性につき諸研究を行った上、工事費55万円で、3か年継続の市道舗装工事に突入する。その基礎工事は、コンクリート、その上にアスファルト舗装をするというものである。このアスファルト舗装は、日本最初の工事であった。その導入に当っては、大正12年3月8日来函したテキサス石油会社のレプコー道路技師の提言に示唆を得たようである(大正12年3月9日「函新」)。 第1年目の工事は、15万2500円で日本石油が落札した。亀田村内から若松町電停(函館駅前)までの海岸町の国道は、内務省(道庁)主管であるが、再三の陳情の結果、道庁が腰をあげ、大正11年、人道と車道を区別する道路改修を行っている。これによって、大門、駅前地区を中心とする舗装道路網の骨格が実現したのである。まず、人道と車道を区別し、人道を優先的に築造し、次に、車道を舗装するという段取りである。地域的には、船場町、若松町、海岸町を連ねる港湾沿岸幹線を先行させ、漸次、その他に拡大して行く方式だった。 函館市の市道舗装計画は、大正14年に立てられた。その結果、道路幅2間半、1万9000余坪の舗装が成った。しかし、これも市道総面坪36万5000余坪の5.5%にすぎないのに加えて、道路幅2間半のみの舗装では、全部の幅をカバーできないため、大正15年、更に7か年計画を立て、市道を更に13万坪、35%を、2間半の幅に止めず、全舗装をすることになった。総工費105万円の大計画である。 |
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