通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 7 大正・昭和前期函館陸上交通 5 悪道と海岸町の踏切 道路悪化 |
道路悪化 P569−P571
明治45年、海岸町は雑漁に従事する漁民2000余人、漁船数百艘の漁村に過ぎなかったのであるが、駅、桟橋およびその付属施設造設のため海面を埋立てられ、大森浜へ移転するなど四散していたのである。もっとも、当時の貨物運送手段は、専ら荷車、馬車であった。自動車は、専ら、市外バスおよび市内乗用車に限られていた。だから、道路破壊の元凶は、荷馬車と目され、警察では積載量制限(二輪馬車1台350貫)、取締のために、車馬の往来瀕繁の船場町の金森倉庫付近に計量器を取付けた(大正12年3月29日「函日」)。しかし、大正7、8年、第1次世界大戦終了の頃から、荷物自動車といわれたトラックが現われ始め、船場町倉庫前−駅前−若松町という新しい産業道路上を疾駆し始め、区(市)民を驚かせた。 大正7年12月3日の「函館日日新聞」は、「やめておくれよ泥車ばかり、函田泥(はこだでい)の泥の流れを滅法に走る貨物自動車、恰も王様の如く、暴君の如く、傍らに人無く家なく町なきが如し」と憤慨している。「自動車が走るようになってから、函館の町は散々に壊された……殊に彼の荷物自動車という奴が地響きを立てて道路を崩して行く」とつけ足している。 このような道路の急速な破壊は、荷馬車、トラックの頻繁に往来する西部倉庫街−鉄道街、つまり、産業道路に見られた。このトラックの登場が道路の根本的近代化、コンクリート道路への転換を決定させたといってよい。 大正11年の新聞記事は、とくに海岸町、つまり、鉄道を核とする新しい市街地の、悪道を大々的に報じている。海岸町、若松町、船場町という、函館駅を中心とした海岸の市街地が、ひどい状態になったことについてである。大正11年11月24日の「函館新聞」は、「道路に渡し船が欲しい」という市民の悲鳴を伝えている。「海岸町もそうだが、何人も眉をひそむる所は若松町の電車の終点にて…下車しようにも何処へ足を踏み下していいか…因って居る、それに次いでの場所は、東浜町か、就中ひどい所は船場町方面」とある。船場町は商業の中心で、物流の最も頻繁な地帯である。たまりかねて、船場町は、この年の9月、人の歩けるよう車道と人道を始めて区分した。この工事は、船場町の町内居住者が、自ら道路改善会を作り、寄付を募り市役所の半額出資を得て実現したもの。 |
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