通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

4 市内交通網

市街電車

市内バス

タクシー

市街電車   P564−P566

 市内の交通は別に論ぜられるので、ここでは詳説を避ける。ただ1つ、言っておきたいのは、その中心に、函館駅が位置していることである。それによって、函館の市内交通は、駅を通じて市外交通と連絡される。この現象は、旅客運輸に見られる特徴である。但し、始発及び終点が函館駅というのではない。
 市内交通は、電車とバス及びハイヤー・タクシーである。
 現在の函館市電は、明治28年の亀函馬車鉄道(30年函館馬車鉄道と改称)から始まり、始めて単線軌道が東川、蓬莱、恵比須、末広、大町、弁天間に敷設されたのは明治30年である。同31年9月、鶴岡町、若松町、海岸町間に単線軌道が開通、同年12月湯の川線が開通した。明治44年11月7日、函館水電株式会社が函館馬車鉄道株式会社を買収し、運輸部を東雲町に設置、本格的に運輸業に乗出す。馬車鉄道の動力を電気に変更したのは、大正2年6月29日、東雲町、湯川間に電車を開業してからである(10区1区1銭、通行税1銭、料金区11銭)。東雲町始発、大門前、東川橋、千代ヶ岱町、営業所前、女学校裏、五稜郭、開発、柏野、深堀、競馬場前、芦掘、鮫川橋、寺野、湯川終点と16か所の停留所が設けられた。

「停車場前」付近(『最新函館写真帳』大正3年刊)
 大正2年10月31一日、函館区内に電車が開通し、始めて「停車場前」という停留所が設けられた。これは、弁天−基坂−十字街−区役所前−停車場前−若松橋というルートの1つであった。この若松橋終点というのは、ここで、鉄道線の踏切にさえぎられたからであり、それ以上、海岸町、亀田村方面へ軌道が敷設できないからである。
 市電ルートは、外に2区間がある。十字街始発−東照宮前−谷地頭(終点)と、十字街始発−新蔵前−東雲町−停車場前(大門前経由)である。実際の運転系統は次の4つであるが、そのどれもに「停車場前」という停留所が入っている。つまり、停車場前が、市電運転の要なのである。
 (1)弁天−十字街−停車場前−若松橋、(2)弁天−十字街−新蔵前−東雲町−停車場前、(3)停車場前−東雲町−新蔵前−十字街−蓬莱町、(4)湯の川線−10月31日区内電車開通の時より終点を東雲町から弁天町に移し、停車場前経由で20分ごとの間隔で運転
 このため、若松町12番地(駅前)から音羽町、高砂町を経て松風町370番地先間約473メートルの単線区間が、大正2年10月31日開通し、翌大正3年5月10日複線開通した。これが大門通線であり、以来この「大門通」が、函館の第2の繁華街になって行く。その後、谷地頭が450メートル開通(始めは単線、大正8年複線)したが、もっと注目すべきは、海岸町、亀田村方面への軌道延長である。
 前述のように、鉄道が海岸町踏切を撤去し、海寄りに海岸線を新設したので、漸く、電車延長が可能になった。
 大正13年6月1日、海岸町住民の要望に答えて、延長工事が起工され、大正14年9月、若松橋−万年橋間1262メートルが開通した。停留所は海岸町−青物市場前−万年橋である。ここに、函館市電路線の大綱が成立したのである。函館駅前が要石の役割を果し、駅前−松風町間が、「大門通り」として、従来の銀座通に次ぐ繁華街に変貌して行く契機が、この市電路線である。ガス会社廻り五稜郭線の新設は、第2次世界大戦後のことである。
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