通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

3 国鉄関連業種の形成

通運事業−日通函館支店

旅客サービス業

旅客サービス業   P562−P564

 函館駅には、旅客のための弁当など飲食物、土産物を供する売店があった。明治38年函館駅の開業と共に、浅田屋(浅田清、のちに駒井某に移譲)が経営した。明治40年10月、桟橋に連絡待合所が設置されると同時に浅田屋が出店をはじめた。大正14年、当局の方針で出店は鉄道退職者に経営させることになり、本駅は石井某、桟橋は清水某が経営することになった。その後桟橋売店は清水、山本、鍵谷の3店となった。昭和7年4月、鉄道退職者18名で函館駅出店営業組合を組織し、代表者を伊東初二として駅内売店の営業を許可されたが、昭和11年8月から鉄道弘済会札幌支部が経営することになった。
 昭和9年12月のダイヤ改正で船車連絡時間が短縮されたので、中継客のため、新聞、雑誌、煙草等を、函館駅出店営業組合が、ホームでの弁当、鮨などの立売りを浅田屋が経営することになった。
 昭和11年、浅田屋から「みかど」へ、出店組合から鉄道弘済会へと立売業者が変る。神戸のみかど株式会社は、全国列車食堂の45%を制する列車食堂の大手であった。浅田屋は、大正12年10月、駅桟橋の大改築の際、設置された食堂も経営していたが、昭和11年8月、これもみかど株式会社に移譲した。従来、函館で、売店、食堂、列車食堂で、独占的地位を占めていた浅田屋の後退は、浅田屋自身の「お家騒動」が原因であったと、昭和11年3月29日の「函館日日新聞」が報じている。昭和13年9月、日本食堂株式会社が創立されて列車食堂を独占する。駅桟橋の食堂はみかどと日本食堂が経営することになった。
 列車食堂の開設は大正3年、函館・札幌間の函館本線で始められた。それまで、弁当等の飲食物は、明治42年以来、浅田屋が担当し車内立売(男子)をしていたのである。ちなみに、浅田屋は、昭和7年会社組織となり、昭和11年8月解散した。女子給仕は昭和8年から乗務した。
 函館の浅田屋は、函館駅開駅当時から、函館駅構内営業の全般にわたって一手に経営していた。駅構内食堂、売店、列車食堂、立売のみならず、赤帽、人力車、タクシーと駅内外の陸上運送にまで手を広げていた。昭和2年7月20日の「函館日日新聞」には、函館自動車協会会員37の社名と経営者が、掲載されているが、その中に「浅田自動車、停車場前 藤谷吉三郎」とある。松風町、大森町、若松町には旭自動車、タカラ自動車、大門自動車、平和タクシー、自動車、北印自動車の名があるが、駅前は浅田自動車のみである。浅田屋の当主浅田清(女性)は「当時を知る者に一代の女傑と称せられたが、昭和十二年七月病没した」(『函館駅50年の歩み』)。この貨物自動車営業は、昭和15年廃業した。
 「赤帽」というのは、明治41年3月、青函連絡船比羅夫丸就航の時から函館駅に置かれた駅構内手廻品運搬人(赤帽)のことで、運搬賃は1個2銭であった(昭和3年5銭)。昭和19年、東亜交通公社に買収され、同年4月廃止された。
 旅行あっせん業は、昭和8年11月15日、函館今井百貨店内に日本交通公社の出張営業所が開設されたのに始まる。「函館日日新聞」は、ジャパン・ツーリスト・ビューローが、鉄道の委嘱を受けて国内乗車券2500円、海外30円、案内記類100円の収入という好成績を10日間で収めたと報じている(昭和8年11月25日)。このジャパン・ツーリスト・ビューローのことを『函館駅50年の歩み』では、日本交通公社と記しているのである。
 昭和8年11月、函館今井呉服店名で出された新聞広告によると、取扱業務は、省線(鉄道省線)朝鮮、台湾、満州、民国行切符発売、シベリア経由欧州行直通乗車券発売、郵船、商船、北日本その他汽船切符発売、団体貸切及請負旅行、クーポン式遊覧券発売(汽車、汽船、自動車、旅館を含む)となっている。ジャパン・ツーリスト・ビューローは、戦時中東亜交通公社、戦後、日本交通公社と改称した。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ