通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 2 業種別各産業の動向 ゴム(化学工業) |
ゴム(化学工業) P446−P448
また、開発ゴム工業所は創立後間もなく買収されて、函館ゴム工業(株)(払込資本金6万円)となるが、社長は岡本康太郎で買収と再建の経緯を次のように語っている。「鷹田元次郎という鉄道に三十二年間もつとめて退職した男が私のところにやってきて、「退職金六万円でゴム靴工場をやりたいのだが、実業界はまるっきり一年生だから一つ社長になって協力してほしい…名前だけでも」と口説くので、とうとうこれを引受けることになったのです。ところが機械の据付けがまだ完全に終らないうちに、早手まわしの鷹田さんがゴム靴の宣伝をして歩いたものですから、注文が殺到してしまい、あわてて製造を開始してはみたものの、工場は不備の上に工員も不なれとあって、ロクな靴が出来ない始末です。こんなわけで満足な品が出来ないうちに、広告代やら人件費やらで資本の大半を使いはたし、私も社長の責任上これではいけないと感じたので鷹田さんにやめてもらい、私の店で使っていた岡田という男を支配人として、あと始末のためとんだひどい目にあってしまいました。」(「函館財界五十年」昭和21年1月「函新」連載)
その他の業種のなかでは、岡本康太郎がゴム会社と同様に設立に尽力した函館酸素(株)がある。上述の財界五十年によると次の通りである。 有江鉄工所の仕事にたずさわるようになってから鎔接などに使う酸素に不便を感ずるようになりました。当時酸素は函館で生産されておらず、よそから買入れるため大変割高についたのです。ドック会社の専務をしていた大塚さんから私に「資本も出すし、製品も半分以上をドックで買入れるから、酸素会社をつくってみたら…」と話がもちかけられ…十五万円の資本金で酸素工場をつくりました。この酸素工場が出来上がったころ(大正九年)東京の保土ヶ谷酸素の工場も函館に進出してきましたので、激しい競争になってしまいましたが、このため当時病院用五十リットルで五円から十円もしていた酸素が工業用千リットルでたった一円にまで値下りし、需要面に少なからぬ恩恵を与えたものでした。 製紙業では、明治年間から創業の函館製紙合資会社は昭和元年で廃業したようであるが、大正7年に創立した北日本製紙(株)は、大正10年に23万円の生産高が13年には39万円と上昇し、その後も30万円を上回っていたが、昭和5年には25万円に低下した。また、昭和5年の紡織工業生産額193万円のうち、製綿業は103万円で53%を占めたが、それまでの古綿の打直しから原綿よりの精製綿製造へと移行している。昭和3年の職工数は、丸村製綿が76名、函館製綿工場が11名、昭和2年創立の飯田製綿所は9名であった。 |
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