通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第3節 函館要塞と津軽要塞 函館要塞砲兵大隊 |
函館要塞砲兵大隊 P287−P288 要塞砲兵隊が創立されたのは明治23(1890)年のことであるが、函館では、函館要塞の設置に先立って同30年11月、函館要塞砲兵大隊が設立され、亀田村の五稜郭に仮事務所を置いた。31年1月現在では、砲兵大尉小国英五郎以下、軍医、将校4名、下士7名、兵卒48名という編成であったが、32年1月には、将校など7名、下士18名、兵卒139名に増加した。また、同11月には、五稜郭から千代ヶ岱兵営に移転した。この年12月には、砲兵75名他の入営によって第1中隊が完成し、1年後の34年12月、大隊規模の編成が完了した。この時期の要塞砲兵大隊の状況は、たとえば兵士の訓練状況についてみると、 一、内地兵ニ比スレハ普通教育ノ程度一般ニ低ク、加フルニ冬季ハ寒気厳シク烈風降雪ノ日多ク、充分ノ演習ヲ施行シ難キコトナルカ為メ教育ノ進歩甚タ遅緩ニシテ、二月下旬頃ハ内地兵ニ比シ其進歩ノ状況稍劣ルノ感アリ(下略) 日露戦争の全期間を通じて、函館要塞砲兵大隊は、基本的に函館要塞の警備を担当したが、同11月、一部は後備第1師団の徒歩砲兵第3独立中隊として朝鮮半島に派遣され、翌38年6月に帰還した。3か月後の同9月、日露講和条約が結ばれたが、函館要塞の守備隊が、戦闘体制を解かれたのは10月16日のことである。その直後より復員業務や残務整理が始まり、函館要塞砲兵大隊も、本部、第1中隊、第2中隊という開戦前の編成となり、臨時編成の第3中隊は、解散して両中隊に分属することになった。 |
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