通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第3節 函館要塞と津軽要塞
2 津軽要塞の設置

日露戦争後の要塞整理

津軽要塞の建設

津軽要塞の設置

津軽要塞の設置   P284−P287

図2-3 津軽要塞

津軽要塞(浄法寺朝美『日本築城史』、原書房、昭和46年)
 昭和2(1927)年4月、函館要塞の名称は廃止となり、津軽要塞と改称された。同4年6月には、函館側の汐首岬砲台の工事が始まり、同8年に竣工した。
 しかし、この頃になると戦術の進歩が激しく、大正12年決定の「要塞再整理要領」の再検討が不可避となってきた。
そこで、昭和8年3月にその修正計画が決定されたが、それは、津軽要塞の場合、敵海軍主力艦隊との交戦はあり得ないとして大口径砲台の建設を中止し、防空施設や対潜水艦、夜間の防禦力に重点を置いた要塞を建設しようというものであった。また、海峡西口の防禦のため、中口径カノン砲を予備として整備することになった。この結果、汐首第2砲台、大間崎第2砲台、龍飛岬砲台、尻屋崎砲台、白神岬砲台の大口径砲台は、すべて建設中止となったのである。
 この間、陸軍築城部の条例改正により、昭和7年8月、築城部津軽支部は廃止されて、新たに築城部本部戸井出張所が亀田郡戸井村に設けられたが、9年7月、同出張所は廃止され、函館に築城部本部函館出張所が設置された。
 以上のように、全国的に大口径砲台の建設は相次いで中止されたが、一方では、ソ連の潜水艦への対応力を保持すべきだとの声があり、予備火砲の15センチカノン砲を装備した砲台の建設が、朝鮮海峡要塞系の各要塞で実施され始めた。津軽要塞でも、同様の工事が実施されることとなり、昭和10年5月に白神岬砲台、翌11年4月に龍飛崎砲台の工事にそれぞれ着工、前者は11年10月、後者は12年12月に竣工した。
 だが、前記の要塞再整理修正計画も、昭和11年末をもって日本がワシントン条約から単独離脱の方針を決定したことから再検討に迫られ、同11年9月、参謀本部は「再修正計画要領」を策定し、翌12年8月には、その細項計画が決定した。これによって、白神岬、龍飛崎の他、新たに立待砲台と汐首崎第2砲台にも15センチカノン砲台が増設されることになった。
 汐首崎第2砲台は、昭和13年に起工し、途中で備砲を45式15センチカノン砲(改造固定式)2門から96式15センチカノン砲4門に変更し、15年6月に竣工した。逆に同年7月、汐首崎第1砲台の30センチ榴弾砲は撤去された。
 この汐首崎第2砲台の竣工をもって、要塞整理による津軽要塞の建設工事はすべて終了し、同15年7月、陸軍築城部本部函館出張所は閉鎖された。なお、大正13年から昭和15年に至る津軽要塞の総工事費は、251万6527円29銭であった。
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